ポツダム宣言と終戦

大嘗祭憲法の項目でも書いたように戦後の歴史のなかで不思議に思うことを整理してみたい。その最初の一つがポツダム宣言の受託と8月15日の皇居前広場の写真である。ポツダム宣言とは1945年7月に米・英・中の名において日本に発信された「全日本軍の無条件降伏」の宣言である。内容的には最近になって様々な情報が開示されてきたが、宣言を受諾するかどうかの最大のポイントは「国体の維持」だったそうだ。国体の維持と書かれても戦後生まれの私にはピンとこないが、8月15日を境に日本人全体が大きく変わったのである。前日までの日本人は本土決戦に備えて様々な準備をしており、その前段として沖縄戦が行われた。広島や長崎に原爆が投下されても竹槍や九十九里浜への連合軍の上陸を想定した訓練などが行われ、国民の殆どは鬼畜米英と戦う覚悟ができていた。そんな国民が何故、天皇玉音放送を聞いただけで膝を折り涙を流し、「終戦」を受け入れたのか。それは御前会議で単にポツダム宣言を受け入れたからだけでは無いようである。ポツダム宣言を受け入れれば「敗戦」であるが、当時の日本人は「終戦」と位置づけている。敗戦と終戦の違いは何か。敗戦とは「客観的事実の受け入れ」であるが、終戦とは「自分の心に受け入れる」ことである。自分の心が判断するのであるから、そこには「納得」が生じ、本土決戦で戦う気持ちを転換してしまったのである。その結果、8月30日にマッカーサーが厚木に飛来し、当日から日本占領が始まったが、国内での混乱は非常に少なかったそうである。占領軍も日本人の抵抗の少なさに拍子抜けしたそうだと記録されている。その後、正式には9月2日にミズーリ艦上で降伏文書の調印式が天皇ではなく外務大臣によって行われ、60日間で日本軍は武装解除された。
御前会議で最後までこだわった「国体の維持」と、日本人の8月15日の終戦の心の変化とはどのような関係なのだろうか。明治維新までは「国家」という意識が殆どなかった日本人がその後、外形的には立憲君主制に基づく天皇による君主制国家を形成した。明治維新以降、西洋の物質文明が導入されて官僚制度と軍隊組織が整備され、近代国家の精神文明を支える装置として国家神道が導入され、天皇の神格化が進められたと言われている。学校教育では教育勅語が制定され、日本という国は天皇を中心とした大家族の様相を呈していたようである。それは戦前のアメリカの戦略分析書ベネディクトの「菊と刀」に書かれている。この分析では日本人が殆ど抵抗せずに敗戦を受け入れたことは想定外だったようである。彼らにも「国体」という概念が理解できなかったので、ポツダム宣言受諾に当たって「国体の維持」という言葉の真の意図を明確に伝えず、マッカーサー到着以降の占領軍に「戦争責任者としての天皇問題」は持ち越されたのである。
日本という国では歴史的に見て天皇が国を代表していた時代は殆どなく、天武天皇以降の奈良時代摂関政治以前と建武の中興時代だけだと言われている。天皇親政時代を除き、「権力と権威が一体となった時代」は少なく、これは欧州の市民革命に基づく立憲君主制の仕組みを日本がすでに先取りしていたのではないかと思っている。その結果、明治維新以降の近代国家体制に天皇が権威として位置づけられても抵抗感は無く、権力も権威も「お上」という概念に一括りにされていたのではないだろうか。だから日本社会の特徴である家父長制のトップに天皇が位置づけられ、家父長の最後の判断が「終戦」ということになった瞬間にそれに従ったのではないか。このような意思決定の概念は多分、欧米の社会構造には存在しない。日本では水田稲作が村社会を育み、最終意思決定の社会構造(これが国体?)を作り上げたと思っている。感慨施設の保守管理を伴う水田稲作には、個人の都合に優先する「公共労働」があり、それなくして「稲作労働社会」は成立しない。西洋農耕社会にも荘園制の時代の領主領地に対する賦役労働を共同で行ったり、三圃式農業による協働労働をしていた。その後、毛織物工業原料の草地確保を目的とした「囲い込み運動」や「サフォーク農法」の普及による大規模化や畜産飼育の通年化が実施されるようになると公共労働の部分が極端に少なくなった。これらは労働集約型の稲作と大規模化が可能な麦作という農作業の部分だけでない。稲という穀物は粒状で直接食べるが、麦類は粉にしなければ食べられないので製粉施設が必要とされ、畜産は解体加工を必要とするので仕事の分業化が必要となることにも違いの原因がある。
このように農業を起点とする社会構造が文明の性質を左右した結果、国体に対する概念が全く異なる国家ができあがったのではないだろうか。西欧社会は市民革命と産業革命を経て近代国家におけるアイデティティを確立し、それが現在の世界の基準となっている。しかし私達の国、日本は西洋文明とは異なる道を歩み、日本独自の「心の文明」とでも言うべき大家族社会を作り上げてきた。来年に行われる大嘗祭は、稲作社会における天皇の単に神事の元締めとしての引き継ぎではなく、私達日本人の「国体の精神構造」の引き継ぎなのではないだろうか。しかし稲作については食料生産の一つの産業としてしか見ない日本人、憲法改正は9条の自衛隊問題だけで1条とセットで考えない日本人、戦後70年経った日本人は終戦の時に皇居前で涙を流した日本人とは全く違う人種になってしまったようだ。もう一度、皇居前の写真を見て、当時の日本人の心を思い起こしてみたい。