サンフランシスコ講和条約と自衛隊

大嘗祭憲法の項目でも書いたように戦後の歴史のなかで不思議に思うことを整理してみたい。その3つ目がサンフランシスコ講和条約日米安保条約である。

ポツダム宣言受諾後の日本では「終戦」という天皇の意志が国民に伝わり、占領軍により武装解除がなされ、その国体としての戦争放棄憲法に明記された。この戦争放棄という方針は第1次世界大戦後のパリ平和会議に端を発し、第2次世界大戦が始まってからは1941年の大西洋憲章によって連合国の戦後処理方針として構想された。つまり太平洋戦争開始以前から国際連合という枠組みのなかで世界平和を実現することが確認されていたのである。
日本の戦後処理構想はこの流れに沿って行われていたので、憲法9条に戦争放棄が謳われていても、当時の日本人としては日本の今後の国体のあり方として当然と受け止めていたと思われる。現在の憲法改正論議で第9条の戦争放棄は占領軍によって押し付けられたものという議論があるが、当時の国際情勢や国民の考え方からすると偏っているのではないだろうか。それぞれの時代の国際的国内的背景と国民としての考え方を勘案することが大切であって、その情勢が大きく変化する時に憲法改正の議論を国民全体でしなければならない。
その世界情勢が大きく変化したのが1950年の朝鮮戦争の勃発であった。国際連合は設立されたものの国連軍が機能するには至らず、そのような状況に対処するために警察予備隊が設立された。その後、東大の南原総長の全面講和と吉田茂の単独講和の論争を経て、日本は西側諸国との講和を優先し、1951年にサンフランシスコ講和条約が締結され、日本は主権を回復した。しかし朝鮮戦争は継続中であり、反共の防波堤としての在日米軍基地の重要性は増し、サンフランシスコ講和条約を締結した。講和条約によってGHQによる日本占領が終結したので、同日に日本からアメリカ軍に対して駐留を依頼する日米安保条約が締結された。最初の安保条約は日本からの駐留依頼の片務契約であり、1960年の安保条約は日米地位協定を伴う双務契約であり、その体制が今日まで続いている。51年安保と60年安保と自動更新された70年安保とそれぞれあるが、締結された時代背景は大きく異なっていたことと当時の日本人がどのように受け止めていたか理解しなければならない。1952年に警察予備隊は保安隊に改組され、1953年には朝鮮戦争の休戦協定が締結され、1954年に自衛隊に改組され今日に至っている。その間、1956年には国連に加盟し、1956年に日ソ共同宣言が出され、1957年には砂川事件に対する伊達判決が出されたが、それは立川基地の使用に関する日米地位協定憲法違反ではないかということを問われたものであった。
このように戦後レジームの変化は自衛隊憲法改正論議はでるものの、日本人の心のありようとして天皇と国体の議論はなおざりになっている。今回の天皇の退位表明は政治的発言が許されていないなかで、何を意味するのか。「終戦」という心を表明した昭和天皇から「退位」という心を表明した平成天皇まで、天皇は国民に何を伝えたいのか。象徴としての天皇が第1条に明記され、第9条では戦争放棄天皇の心として明記されるなかで、日本人の心を引き継ぐ大嘗祭が来年行われる。これは何を意味するのであろうか。私は憲法9条の会にも出席したことがあるが、これまでの経過をしっかりと把握せずに憲法改悪反対を叫んでいたように思う。それぞれの時代の情勢把握とそれぞれの時代の日本国民の心を理解せずに、平和憲法を守ることで頭がいっぱいになっていたような気がする。
今、将に、日米安保に大きな変化が起きようとしている。アメリカの世界政策が大きく転換しようとしている。中国の軍事的プレゼンスが東アジア情勢に大きな影響を与えている。朝鮮戦争終結により朝鮮半島からアメリカ軍が撤退するかもしれない。米朝合意により核の傘が撤去された時に日本の米軍基地はどうなるのか。誰がどのようにして日本という国体を守るのか。第9条に「自衛隊」を明記するだけで解決する問題では無い。私達はこのような状況のなかで戦後70年間と同様の態度で良いのだろうか。良いわけは無いし、このままでは日本人はディアスポラとなる可能性は高く、なったとしてもユダヤ人のように民族としての持続性を担保できるものは持っていない。彼らはバビロン捕囚のなかで「一神教」という生き残る知恵を生み出し、2500年後にイスラエルという国を復活させたのである。もし今から2500年後に世界の歴史があったなら、その書物から「日本」という国の歴史は消滅していることだろう。

天皇とマッカーサー

大嘗祭憲法の項目でも書いたように戦後の歴史のなかで不思議に思うことを整理してみたい。その二つ目が天皇マッカーサーの写真である。
マッカーサーが厚木に到着して以降の経過を時系列で紹介してみたい。

8月30日にマッカーサーが厚木に飛来した。
当時のマッカーサーはこのようなコメントを出している。
「自分は日本国を破壊し国民を奴隷にする考えは全く無い。要するに政府と国民の出方一つでこの問題はいかようにもなる」占領軍による直接統治ではなく、間接統治を約束している。
9月10日に天皇を戦犯として裁く決議案がアメリカ議会に提出されている。
9月11日にGHQ東条英機等の戦争犯罪人を逮捕して拘留している。
GHQ内部では天皇は日本人の精神的な拠り所であり、天皇の意向を利用した統治を進言するグループがあった。
このような状況のなかで天皇マッカーサーとの対談を希望し、吉田茂天皇の意向をマッカーサーに伝えた。
マッカーサーは要望を受け、会談場所をGHQ本部ではなく、アメリカ大使公邸に設定した。
9月27日にアメリカ大使公邸において天皇マッカーサーの会談が実施された。
会談において天皇は今回の戦争の全責任を負うことを表明した。
その結果、GHQ天皇戦争犯罪人として裁判にかけられた場合には日本の統治機構は崩壊し、全国的な反乱が避けられないであろうとの判断に至った。
翌日の新聞は会見を一斉に報道したが、直立不動の天皇マッカーサーとの並んだ写真は不敬にあたるとして掲載が禁じられた。
しかしGHQは直ちに掲載禁止処分を撤回し写真の掲載を指示した。
この写真の構図は体格の違いと両者の位置取りの関係からして、マッカーサー天皇の上位にあるような印象を与えたのでは無いだろうか。国体の象徴としての天皇の上にマッカーサーが存在するという認識に陥ったとしても無理は無い。更に、この写真によって日本国民は8月15日以来の終戦ではなく敗戦を改めて実感させられたのでは無いだろうか。
GHQは日本の占領政策として天皇と国民との関係性を有効に活用し、その後の占領政策を進めた。占領政策の基本は日本の武装解除民主化であり、戦争の原因となったであろう戦前の体制を一つ一つ改革していった。
国際連合が開設された1945年10月には日本軍は解体され、12月15日には神道指令が出され、翌年の1月1日には天皇人間宣言が出され、教育勅語が廃止され、11月3日には新憲法が公布され、翌年の1947年5月には新憲法が発布され、象徴天皇としての第1条が明記された。その後に東京裁判が開始されたが天皇は勿論、戦争犯罪人として訴追されず、ポダム宣言受諾のときの最大課題であった「国体の維持」はなされた。国体の維持と書いてしまうと、何か右翼的な文章のような印象を与えるが、この間の経過を綿密に検証していくうちに当時の日本人の心の変化が分かってくるような気がする。日本人の社会は稲作中心の村社会が基本であり、家族制度と家父長制を基本とした村の掟がある。その掟が家族であり、村であり、国であったのでは無いだろうか。家族は家長が決めた最終判断に従い、従わないと家族も村も国も成り立たない。8月15日の終戦は日本国の家長である天皇の最終判断であり、その心は日本国民全体に伝わった。そのような日本人の心の状態のなかにマッカーサーが来て天皇戦争犯罪人にしなかった。しかし二人の写真を見ると、何やら私達の家長である天皇よりも偉そうに見える。たとえそれがGHQの占領統治政策の一貫であるとの解説があったとしても、当時の日本人としては不思議に思わなかったのではないだろうか。国体としての天皇を庇護する存在がマッカーサーであり、マッカーサー天皇が一体となって国体を形成していたのではないかと感じている。それがサンフランシスコ講和条約日米安保体制へと連なり、今日の国体を形成しているのではないかと思う。
戦後の昭和天皇は将に英国式の立憲君主制のモデルとして振る舞い、その子の平成天皇は日本人の心に寄り添い、それがアメリカから教えられた民主主義を体現することだという確信をもっているのではないかと考える。戦前は国体と呼ばれていたが、今や日本人の「心の象徴」としての天皇になっている。今回の退位問題に関して天皇は直接の発言をしないが、日本人の国体としての「心」に危機が迫っていることを国民に伝えたいのではないだろうか。天皇は「祈っているだけで良い」という暴言を吐いた人がいるそうだが、その人間には日本人の心が流れていないようだ。

ポツダム宣言と終戦

大嘗祭憲法の項目でも書いたように戦後の歴史のなかで不思議に思うことを整理してみたい。その最初の一つがポツダム宣言の受託と8月15日の皇居前広場の写真である。ポツダム宣言とは1945年7月に米・英・中の名において日本に発信された「全日本軍の無条件降伏」の宣言である。内容的には最近になって様々な情報が開示されてきたが、宣言を受諾するかどうかの最大のポイントは「国体の維持」だったそうだ。国体の維持と書かれても戦後生まれの私にはピンとこないが、8月15日を境に日本人全体が大きく変わったのである。前日までの日本人は本土決戦に備えて様々な準備をしており、その前段として沖縄戦が行われた。広島や長崎に原爆が投下されても竹槍や九十九里浜への連合軍の上陸を想定した訓練などが行われ、国民の殆どは鬼畜米英と戦う覚悟ができていた。そんな国民が何故、天皇玉音放送を聞いただけで膝を折り涙を流し、「終戦」を受け入れたのか。それは御前会議で単にポツダム宣言を受け入れたからだけでは無いようである。ポツダム宣言を受け入れれば「敗戦」であるが、当時の日本人は「終戦」と位置づけている。敗戦と終戦の違いは何か。敗戦とは「客観的事実の受け入れ」であるが、終戦とは「自分の心に受け入れる」ことである。自分の心が判断するのであるから、そこには「納得」が生じ、本土決戦で戦う気持ちを転換してしまったのである。その結果、8月30日にマッカーサーが厚木に飛来し、当日から日本占領が始まったが、国内での混乱は非常に少なかったそうである。占領軍も日本人の抵抗の少なさに拍子抜けしたそうだと記録されている。その後、正式には9月2日にミズーリ艦上で降伏文書の調印式が天皇ではなく外務大臣によって行われ、60日間で日本軍は武装解除された。
御前会議で最後までこだわった「国体の維持」と、日本人の8月15日の終戦の心の変化とはどのような関係なのだろうか。明治維新までは「国家」という意識が殆どなかった日本人がその後、外形的には立憲君主制に基づく天皇による君主制国家を形成した。明治維新以降、西洋の物質文明が導入されて官僚制度と軍隊組織が整備され、近代国家の精神文明を支える装置として国家神道が導入され、天皇の神格化が進められたと言われている。学校教育では教育勅語が制定され、日本という国は天皇を中心とした大家族の様相を呈していたようである。それは戦前のアメリカの戦略分析書ベネディクトの「菊と刀」に書かれている。この分析では日本人が殆ど抵抗せずに敗戦を受け入れたことは想定外だったようである。彼らにも「国体」という概念が理解できなかったので、ポツダム宣言受諾に当たって「国体の維持」という言葉の真の意図を明確に伝えず、マッカーサー到着以降の占領軍に「戦争責任者としての天皇問題」は持ち越されたのである。
日本という国では歴史的に見て天皇が国を代表していた時代は殆どなく、天武天皇以降の奈良時代摂関政治以前と建武の中興時代だけだと言われている。天皇親政時代を除き、「権力と権威が一体となった時代」は少なく、これは欧州の市民革命に基づく立憲君主制の仕組みを日本がすでに先取りしていたのではないかと思っている。その結果、明治維新以降の近代国家体制に天皇が権威として位置づけられても抵抗感は無く、権力も権威も「お上」という概念に一括りにされていたのではないだろうか。だから日本社会の特徴である家父長制のトップに天皇が位置づけられ、家父長の最後の判断が「終戦」ということになった瞬間にそれに従ったのではないか。このような意思決定の概念は多分、欧米の社会構造には存在しない。日本では水田稲作が村社会を育み、最終意思決定の社会構造(これが国体?)を作り上げたと思っている。感慨施設の保守管理を伴う水田稲作には、個人の都合に優先する「公共労働」があり、それなくして「稲作労働社会」は成立しない。西洋農耕社会にも荘園制の時代の領主領地に対する賦役労働を共同で行ったり、三圃式農業による協働労働をしていた。その後、毛織物工業原料の草地確保を目的とした「囲い込み運動」や「サフォーク農法」の普及による大規模化や畜産飼育の通年化が実施されるようになると公共労働の部分が極端に少なくなった。これらは労働集約型の稲作と大規模化が可能な麦作という農作業の部分だけでない。稲という穀物は粒状で直接食べるが、麦類は粉にしなければ食べられないので製粉施設が必要とされ、畜産は解体加工を必要とするので仕事の分業化が必要となることにも違いの原因がある。
このように農業を起点とする社会構造が文明の性質を左右した結果、国体に対する概念が全く異なる国家ができあがったのではないだろうか。西欧社会は市民革命と産業革命を経て近代国家におけるアイデティティを確立し、それが現在の世界の基準となっている。しかし私達の国、日本は西洋文明とは異なる道を歩み、日本独自の「心の文明」とでも言うべき大家族社会を作り上げてきた。来年に行われる大嘗祭は、稲作社会における天皇の単に神事の元締めとしての引き継ぎではなく、私達日本人の「国体の精神構造」の引き継ぎなのではないだろうか。しかし稲作については食料生産の一つの産業としてしか見ない日本人、憲法改正は9条の自衛隊問題だけで1条とセットで考えない日本人、戦後70年経った日本人は終戦の時に皇居前で涙を流した日本人とは全く違う人種になってしまったようだ。もう一度、皇居前の写真を見て、当時の日本人の心を思い起こしてみたい。

従軍慰安婦問題と奴隷

アメリカの地方議会で韓国の慰安婦像の設置が可決されたという新聞記事を読んでずっと違和感を感じていた。最近、その違和感の原因が分かった。その原因とは従軍慰安婦がsexslaveと英語訳されていたことだ。Slaveという言葉は奴隷と訳され、殆どの日本人はアメリカ大陸における黒人奴隷を想起し、リンカーン奴隷解放をしたという知識レベルである。
しかし奴隷に対する欧米の感覚は日本人とは全く異なる。そもそも奴隷制度はギリシャローマ時代から存在し、戦争で負けた国の人間は殺されるか奴隷になるかの二者択一だった。アテネの民主政の底辺には奴隷の存在があり、自由と平等はそこには存在しない社会であった。マックスウェーバーの古代文化没落論によればローマ帝国の時代はその領土拡大の過程で多数の奴隷を獲得し、その殆どが植民地の農園労働に従事させられ、それがローマの繁栄を支えていたという。そのラティフンディウムにいた奴隷たちは商品作物の生産に従事させられ財産も家族も無く、「しゃべる家畜」であった。奴隷は家族を持たないので供給は絶えず外部から補給されなければならなかった。しかしローマの平和によって戦争による領土拡大が停滞すると奴隷の供給が途絶え、農園の奴隷労働経済は崩壊し、その結果、ローマ帝国は滅亡したと言われている。その後、奴隷は領主から土地を与えられる代わりに特定の労役を負担する農奴となり、中世の荘園経済へと組み込まれていった。農奴は古代の奴隷と異なり家族を持てるようになり、封建制の基盤である小農民経営へと移管した。
日本の場合、奴隷という概念は弥生時代に中国皇帝に「生口」を献上したという記録がある。しかしこの生口が奴隷を意味したものかどうかは分かっていない。更に日本には「穢多非人」という身分制度が存在していたが、それは専門職業的要素が強く奴隷という概念には相当しない。朝鮮半島の場合、高麗時代に「貢女」が中国皇帝に献上されたという記録があり、韓国のテレビドラマでも良く出てくる。しかし双方ともに「しゃべる家畜」ではなかった。
しゃべる家畜としての奴隷の問題はヨーロッパの身分制度になかに組み込まれていたが、本格的な問題となったのはヨーロッパの植民地獲得競争の時代にアフリカ、新大陸における三角貿易の商品としての奴隷が取り扱われるようになってからである。アフリカ人は人種的にヨーロッパ人とは異なるという学説があったために、ダーウィンは進化論の発表ができず、奴隷解放宣言以降に発表されたと言われている。ダーウィンの進化論についてはキリスト教の宗派の一部で禁止されており、進化論と人種差別問題が未だに解決されていない。黒人の公民権が認められるようになったのは1964年まで待たなければならなかった。このように奴隷に対して「負の歴史」を持つ欧米人が朝鮮人慰安婦をSexslaveと訳されて報道された場合に、「しゃべる家畜」としての奴隷問題を想起してもおかしくない。
しかし高麗の貢女も日本の吉原への年季奉公も商品としての奴隷ではなく、そこには人身売買の要素はあっても期間限定の労働力売買の契約であり、年季奉公が明ければ自由となり、そこには商品としての奴隷は存在しない。言葉というものはその国の長い歴史のなかで理解されており、認識の度合いも異なっている。これからは日本の国の言葉の持つ価値観をきちんと世界に伝えていくための努力を政府も国民もしなければならない。これは慰安婦の問題だけに限ったことではない。

有機と持続可能

ベーシックインカムとボランティアのところでも書いたが、日本での有機農業はなかなか進展していない。その理由は何故かと言うと、国民の殆どが有機農業は単に化学合成物質を使用しない「食の安全」を志向する農業だと思っているからだ。有機農業という言葉はハワードの「農業聖典」に書かれている「オーガニック」を「有機と訳したところから始まっている。別に訳し間違いではないが、オーガニックの本来の意味合いは「持続可能」という意味であり、それは「サステイナブル」という言葉で表されている。農業聖典が訳された昭和の40年代に「持続可能農業」ととう言葉を使っても殆どの日本人はその言葉の意味を理解出来なかったであろう。当時はレイチェルカーソンが書いた「沈黙の春」が話題になっており、そこに書かれていた農薬問題の影響から有機農業という訳に落ち着いたものと思われる。つまり化学農薬等の無機化合物つまり化学合成物質を使用しないのだから「無機」の反対語として「有機」という言葉が使われたのである。
私の有機との出会いは、30年前のヨーロッパ駐在時に日本種野菜の契約栽培をしているオランダ農家の中に有機栽培に取り組んでいる若者がいたことから始まる。彼とはゴボウの契約栽培等をしていたが、家に上がり込んで有機栽培に対する様々な意見交換をしたことを覚えている。当時の西ドイツにはデメーター等の有機農産物の認証機関や店舗があったがメジャーでは無かった。その後、日本帰って暫くの間、違う仕事をしていたが、平成7年にJETOROがアメリカの西海岸の有機認証の仕組みを紹介したのを契機に有機の取組を開始した。取り組むなかで当時の日本では珍しい有機農産物を取り扱っている種山ヶ原という会社と出会った。彼はアメリカで長くヒッピーとして放浪しており、アメリカの有機農業関係者を良く知っていた。彼からの情報とヨーロッパでの経験を元にして全農で有機産直プロジェクトを提案した。肥料農薬を大量に取り扱っている全農で有機の取組をすることは将に異端児であった。しかし平成8年には種山ヶ原の協力を得て、アメリカオーガニック研修を企画した。内容的にはアメリカを縦断しながら、オレゴンティルス等の有機農産物の認証機関や有機農産物の生産農家、更に有機農産物を取り扱っているホールフーズ等のスーパーを見学して意見交換をした。その時に印象的なことは、自分たちは有機農業をアジアから学んでいるといって、日本の肥溜等が写っている写真が掲載されている書籍を紹介してくれた。将に有機が目指す地域循環型社会が日本にあったのである。更に東海岸のウォルナットエーカーズでは有機農産物の生産から加工・販売・小売までおこなっており、そこには地域雇用に貢献する姿があった。テキサスのナチュラビーフの牧場ではブロックローテーションを基本とした生産はもとより、屠畜・解体・部分肉製造を個体識別番号別に行っており、その後の日本でのBSE対策に役立った。その年には日本で初めての有機農産物の基準づくりを目指したDEVANDAに参加した。平成9年に有機産直リーダー協議会にも参加し、国内有機生産者のネットワークの一員となった。その当時に加藤登紀子の旦那さんの藤本さんと仲良くなり、様々な夢を語ったが残念ながら今はもういない。
その後、偽有機ダンボール事件が起き、農水省は農産物流通の表示適正化の委員会で有機という言葉の定義を定め、平成13年に有機JAS法という形になった。当時の委員会に私も出席していたが、当初は有機農業の普及推進を図るための集まりだと思っていた。しかし残念ながら検査認証制度を伴う表示の適正化に終始してしまい、有機農業の推進に関する法律は5年後の平成18年までかかり、それも議員立法という形で成立した。
このような形で日本の有機農業は推移してきたので、検査・認証制度だけが表に立ってしまい、有機農業が何を目指すのかの議論がお座なりになってしまった。有機に対する適正な表示がされた後も、消費者は肥料農薬を使用しない農産物が有機農産物だという理解をしていた。それは「食の安全」の視点だけで有機農産物を見て、そのコストをEUのCAP政策のように直接支払いという税金で賄うという議論にはならなかった。有機の生産者もこの間、産直相手先である生協等の顧客確保を優先してしまい、地域全体における有機農業の役割の議論が展開できなかった。平成12年には環境3法が出来て、畜産堆肥を対象にした地域循環型農業への対応を求められたが、畜産有機農家が殆どいなかったので有機とは別問題として取り組まれた。本来であれば地域循環型農業と有機農業をセットで考えれば「持続可能な地域」という概念が生まれ、それは有機農産物に価格転嫁するものではないということが分かる。
2012年にローマクラブの成長の限界の総括が出されたにもかかわらず、アベノミクスでは経済成長を追い続けている。本格的な人口減少社会に突入している日本で未だに高度経済成長社会を夢見ているのはおかしいのではないか。それは地域社会に根付き、持続可能な生き方を模索しない限り見えて来ないのではないか。有機農業を支える「サステイナブルシステム」として直接支払いが存在するのであるが、残念ながらベイシックインカムと併せて本格的な認識には至っていない。日本人の心のありようをもう一度、考え直さなければならない。

ベーシックインカムとボランティア活動

先日、テレビでベーシックインカムについて放映されていたが、ネットで調べてみると以下のように書いてあった。
就労や資産の有無にかかわらず、すべての個人に対して生活に最低限必要な所得を無条件に給付するという社会政策の構想。社会保険や公的扶助などの従来の所得保障制度が何らかの受給資格を設けているのに対して無条件で給付する点、また生活保護や税制における配偶者控除など世帯単位の給付制度もある中で個人単位を原則とする点が特徴である。すべての人に所得を保障することによる貧困問題の解決に加え、受給資格の審査などが不要なため簡素な制度となり管理コストが削減できること、特定の働き方や家族形態を優遇しないため個人の生活スタイルの選択を拡大できることなどが、メリットとして指摘されている。一方で、膨大な財政支出の財源をどうするか、導入によって誰も働かなくなるのではないかなどの批判もあり、論争が繰り広げられてきた。ベーシック・インカムに類する考え方は、資本主義社会の成立期から見られ、1960〜70年代には欧米で議論が展開されてきた。さらに80年代以降、働き方の多様化や非正規雇用・失業の増大、家族形態の多様化、経済活動が引き起こす環境問題の顕在化など、これまでの福祉国家が前提としてきた労働や家族のあり方が変わってきたことを背景に、従来とは異なる考え方の所得保障構想として注目を集めている。
残念ながら日本ではこのベーシックインカムの本格的議論はなされておらず、働き方改革の議論でも考慮されていない。それは「労働の対価としての賃金・所得」という概念が強すぎるからではないかと思われる。人間の労働を「稼ぎ」と「仕事」に分けて考えることを内山節氏は提案しているが、そのとおりだと思う。用水の修復や入会地の整備等は地域全体の賦役であり、それには労働対価としての賃金は存在しない。企業が人間の労働を稼ぎの尺度だけで考えると、ブラック企業となってしまう。企業活動には「利益の追求」と「社会貢献」の2つ側面がある。
ここ数年、学生と一緒にボランティア活動の研究をしているが、ボランティア活動を「社会貢献活動」としてとらえ、その原則の1つとして「無償労働」が掲げられている。その結果、学生は「就職」活動の一貫としてボランティア活動に参加している。私はそれは違うと思う。ボランティア活動は労働のうちの「仕事」の分野であり、仕事だから社会貢献であり無償なのだと思う。しかし、これにもう1つ加えにければならないのが「ベーシックインカム」という視野階制度である。ボランティア活動はベーシックインカムと一体となることによって社会に定着し、これからの若者が活躍する社会の姿になると感じている。所得補償については25年前から試みられた「農家の直接支払い」があるが、日本国民には農業労働における「仕事」の部分が見えず、EUのようにはなっていない。農業労働が地域環境を保全していることに対して「地域環境保全費用」の支払いをEU市民はしており、その理解が未だに進んでいない。その結果、日本では気候変動枠組みや生物多様性の取組が進展せず、「有機農業」が「嗜欲の安全」という視点だけで語られている。明治維新前まで「ジネン」という意識を持っていた日本人が一神教EUの後塵を拝しているのである。

無宗教と自然法

明治維新まで日本人の概念に無かったもの、それが「宗教」という概念と「自然(シゼン)」という概念である。現在では普通に使っている言葉であるが、2つとも西洋文明の概念であり江戸時代までの日本人には理解出来なかった。
日本人は海外旅行に行くと入国カードに宗教の欄があり、なんと書いてよいか戸惑っている。真言宗だとか日蓮宗ではおかしいし、仏教と書くのも何となく変だと感じている。その時に殆どの日本人が感じることは、私達には宗教が無いのではないかと。しかし日常の生活では神様も信じているし、法事は檀家のお寺で行っているし、クリスマスは祝うがキリスト教では無い、分からなくなって最後は空欄で出してしまう。空欄でだすと外国人の乗務員からは変な顔をされるという経験を持っている人は多いと思う。
その原因は「宗教」という言葉が実は1神教の世界の概念であり、世界の殆どの国の宗教が1神教だからなのだ。1神教に対して日本は多神教であると言われているが、信じる神様の数の違いなのだろうか。実はそれが日本人の陥っている誤解なのだ。多神教というのは世界のどこの文明でも初期に見られ、人間が生きていくうえで自然を畏怖し、様々な自然現象を神としてたたえることは当然のことであった。それを一神教の西洋文明では原始宗教(アニミズム)と呼び、マヤ文明やアズテカ文明等、殆どのアニミズムの文明は世界から姿を消してしまった。これは決して原始宗教だから文明的にも原始的なものだということを意味するものではない。
日本は仏教が入って来る前は縄文時代火焔土器土偶に見られるように一定の先祖に対する儀式があり、本格的な稲作が伝えられた弥生時代以降はシャーマンによる呪術信仰がされていた。その後、古墳時代を経て国家が形成される過程で仏教が入ってきた。蘇我氏物部氏による仏教と豪族による在来の神々の信仰が衝突した時期もあったが、本地垂迹という形で神と仏の融和がなされた。それは古代国家形成の過程でも仏教と同様に唐からの律令制度が導入され、全国の神々の統一を図る天皇家の神が伊勢神宮として整備され、それが神祇官太政官という律令制度として整備され明治維新まで続いた。明治維新廃仏毀釈まではお寺と神社が同じ場所に共存しており、私達の家庭に神棚と仏壇が共存するのはこのためである。これが日本の宗教の形であり、他の宗教を排斥する一神教とは異なる。そのために明治維新まで日本人には「宗派」という概念はあったが、宗教という概念が存在しなかったのだ。キリスト教においてもヨーロッパに普及する過程で、現地にあった神々と融合しマリア信仰等の形を変えて今日に至っている。このようにアニミズムと呼ばれる原始信仰が今日まで残っている文明国は日本だけであり、神の存在を否定する「無神教」とは異なる。
日本人のこのような信仰の結果、自然界の神々は常に人間の生活とともにあり、一神教の創造神という発想は全く無かった。創造神は自然界を創造し、その自然界を管理するために人間を創造したので、西洋文明では人間の管理する対象として自然が存在した。日本文明では自然の存在は人間の存在と同じなので英語でいうnature(自然)という概念そのものが無かった。明治維新以降にnatureという概念を表現する漢字として「自然」という字を当てたが、その字の本来の読み方は「ジネン」であった。現在の日本人は本来の「ジネン」の意味を忘れ去り、西洋文明で使われている「シゼン」という概念に染まってしまった。
Natureという概念は実はもう1つあり、それは「自然法」である。自然法でいうところの「シゼン」の概念は明治維新前の日本人が使っていた「ジネン」であり、「自ずから然る」という意味である。歎異抄に出てくる「ジネン」という言葉と同じである。この自然法理論はギリシャ哲学の倫理とキリスト教の神定法理論をアウグスティヌスが合体させたものである。その後、近世において市民国家の理論的背景として自然法の概念がグロティウスやホッブスによって整備され、今日の民主主義の流れを形作っている。1992年以降活発になった地球温暖化生物多様性等の自然保護運動がヨーロッパを中心に始まったのは、一神教の神から託された自然の管理責任から来ているものなのだ。原発廃止の取組もチェルノブイリによる自然の生態系破壊が神定法に違反しているという意識から来ている。
日本人の環境問題への取組は客観的対象物としての「シゼン」を保護することだけに向けられ、人間の心の問題も含む「ジネン」の考え方が欠落している。もう一度、日本人としての心のありようを考え直さなければならない。