アベノミクスとアダム・スミスの国富論(その1)

アベノミクスの効果測定をする前に円安株高が進行している。春闘では定昇プラスαの会社もあるようだ。何となくデフレから脱却して日本全体が経済的に豊になるという観測が出されている。
待てよ。本当に豊になるのかな?ガソリン代は上がり、野菜は高止まりし、節電しているにも関わらず電気料金は上がり、下がっているのは私の年金と正規雇用。年金は昨年の6月と今年の2月の2回に渡って引き下げられている。年金は物価スライドなので、何時上がるのか全く分からない。そして輸入原料を使用した食品が直に上がり、来年からは消費税が待ち構えている。可処分所得は間違いなく下がっている。

ここで文句だけを言っても始まらない。このような社会の仕組みは既に出来上がってしまっており、これを富が偏在する格差社会という。可処分所得が多い人は余裕金を株式投資にまわして利益が上がり、可処分所得が低い人は爪に火を灯して生きてゆくしか無い。これでは「レ・ミゼラブル」ではないか。

デフレ脱却は一体誰のためにやっているのか。本当に国民のためなのか。インフレ目標値を定めて、日銀に金融政策の連動を強制している。日銀は物価の番人から物価の火付け役に役割を変更しようとしている。
GDP=消費+投資という経済法則を盾にアベノミクスは進められているが、GDP経済成長は常に右肩上がりでないと、国民は幸福ではないのか。ブータンではGNHと言っているではないか。「経済」という言葉は福沢諭吉の「経世済民」から来ているそうだが、民は救われていない。

バブル崩壊後、GDPを挙げるために投資「公共投資」を増やし続けて 1000兆円という借金を作ってしまった政治家と役人。それを許してしまった選挙をした国民。民主党は本当に馬鹿だったのだろうか。1000兆円は一体誰が払うのか。私達の責任を後世代に押し付けて、我々は死に逃げをするのか。どうも何かがおかしい。

そこで経済と言う名の学問を確立したアダム・スミスは間違っているのではないかという疑問を抱いて調べてみた。彼は国富論という書物のなかで経済の原則論を書いている。有名な言葉は「見えざる手」であるが、これは人間の欲望が経済を動かしていると一般的には言われている。私は経済学者ではないので、一般人としての理解度で読んでみるとこんなことが書いてあった。

アダム・スミスが生きていた18世紀のイギリスは現在の日本と酷似している。オランダに代わって大西洋貿易の覇権を握り、産業革命によって生産技術の革新が進み、生産量は1.4倍となった。その内の輸出関連は2.6倍、非輸出関連は1.1倍であった。ちなみに農業生産量は1.2倍であり、将に貿易立国であった。16世紀以降、農村から都市への人口移動が進み、農村からの労働者が都市部の工業発展を支えていたが、都市部では格差と貧困が広がっていた。更に国債残高はオーストリア継承戦争、7年戦争、アメリカ独立戦争の戦費を調達するために膨れ上がり、税金の増大は避けられない状況であった。

そんな時代にアダム・スミスは「道徳感情論」と「国富論」という書物を著した。国富論はよく知られているが道徳感情論はあまり知られていない。しかし国富論の「見えざる手」を正しく理解するためには、道徳感情論を理解しなければならないと言われている。道徳感情論とは何か書いてある本かと言うと、「社会秩序を導く人間の本性とは何か」ということを解説している。人間にはそれぞれ良心があり、その良心によって自制が働いている。しかし良心といえども正義に反する行為に対しては自制が効かない場合があり、それを制御するために「法」がある。それらの良心と法によって社会秩序が実現する。この良心とは、種としての人類の保存本能であり、「見えざる手」に導かれるのが良心である。つまり「見えざる手」とは無制限の利己心が放任された形では無いのだ。(私なりに解釈したが良く分からない)

国富論のなかで、「見えざる手」が言及されている部分には次のように書いてある。自分自身の利益を追求する事が、実際にそれを促進しようという意図する場合よりも、しばしば社会の利益を効果的に推進する場合がある。これは市場の価格調整メカニズムのことであるが注意すべき点は、市場が公共の利益を促進するためには市場参加者の利己心だけでなく、フェアプレイの精神が要求される事を忘れてはならない。フェアプレイのルールが侵犯される場合に市場は本来の機能を果たすことはできない。現在の公共事業への投資は、フェアプレイのルールに則っているのだろうか。

金が金を生む極地と言われたリーマンショックの時に、「道徳心無き見えざる手」が話題になった。アダム・スミス国富論のなかで「金」についても次のようにも書いている。市場の拡大とともに交換媒体として貨幣が用いられるようになり、人々の間に貨幣を富と思い込むという錯覚(貨幣錯覚)が生じた。自分が所有する貨幣の名目額が増えれば、自分が豊になったと思い込むようになった。しかし本当に価値があるのは貨幣ではなく、それと交換される必需品や便益品であるのだ。国富論を著した目的の一つは、この錯覚から人々を覚醒させ、真の豊かさをもたらす一般原理に導くことにあったそうだ。
残念ながら現代人の殆どはこの「貨幣錯覚」という病気にかかっている。