TPP参加問題と国民の意識

TPP参加問題については以下の6項目を中心に議論がされている。
[1]『聖域なき関税撤廃を前提にする限り、TPP交渉参加に反対する』
[2]自由貿易の理念に反する自動車等の工業製品の数値目標は受け入れない。
[3]国民皆保険制度を守る。
[4]食の安全安心の基準を守る。
[5]国の主権を損なうようなISD条項は合意しない。
[6]政府調達・金融サービス等は、我が国の特性を踏まえる。

国民も最近では「TPP問題が農業問題だけでは無い」という理解が進んできたようだ。しかしどの項目をとっても「反対」という声ばかりで、今後どのように対処すれば良いのかという議論が聞こえてこない。総ての項目をここで論じるわけにはいかないので、農業問題に特化して考えてみたい。

私はこれまでブログのなかで、20年前のガットウルグァイラウンド交渉の「米を一粒たりとも入れない」というスローガンの虚しさを書いてきた。その時の交渉の内容は米の輸入自由化ではない。世界の農業保護政策の方法を変更することが議論されていたのだ。残念ながら日本国民にはその真実が知らされず、2001年まで関税化を猶予するかわりにMA米の輸入(42.6万トン)が義務付けられ、現在では76.7万トンが輸入されている。その後、関税化は猶予されていたはずなのにMA米増加圧力に耐え切れず、1999年に米は関税化され778%の関税がかけられている。現在のTPP交渉での最大の議論は、この「778%が聖域」かどうかということである。

国民はここでだまされてはいけない。20年前の交渉で「米を一粒たりとも入れない」という要求を我々は勝ち取ったはずである。これは関税化を阻止したということであったはずなのに、現在のTPP参加交渉では778%の関税率の聖域化が問題になっている。何故、このようになったのかというと、20年前のガットでの農業保護政策の対処問題が発端となっている。20年前の日本は食管法という法律で稲作農家を保護する政策をとっていた。いわゆる価格政策という農業保護政策である。しかしガット交渉で、日本はこの食管法という法律があったので農業保護政策を変更できなかった。(EUは1992年にCAP改革で農業保護政策の大転換をしている)その後、1995年に「規制緩和」という経済界全体の流れのなかで、農業も規制緩和という名のもとで「食管法」から「新食糧法」に転換したのだ。この転換は何を意味したのかというと、これまで価格政策で稲作農家を保護してきたが、米価のコントロール機能を失ったので、価格政策では農家を保護することが出来なくなったことを意味する。実は、この時にEUのように農業保護政策の大転換(価格政策から直接支払い政策への転換)をしなければならなかった。その後、直接支払い政策は2000年の中山間地対策から始まり、個別所得補償政策へと転換しているが、国民はその転換の意味を殆ど理解していない。

ここで私が言いたいのは、「このままのTPP参加反対闘争では、仮にTPPに参加しなくとも日本の農業の展望が無い」ということなのだ。TPP不参加が決定すれば、そこで問題は解決したということで闘争は終わってしまう。しかし、ここできちんとした国民的議論をしないと20年前と同じ結果になってしまうのだ。20年前の議論は農業保護政策を「産業政策」と「地域政策」に分けて考えようということだった。産業政策としては農業という産業を特別扱いするのではなく、世界の自由貿易を促進するためのルールの中に組み込むのだ。それだけでは地域の気候風土に左右される農業という産業が保護できないので、地域政策として環境との関係性を考慮して農家を税金で直接保護する政策に転換したのだ。現在のTPP参加交渉の本質を理解するためには、このことを国民が理解しなければならないが、国民の殆どは6項目のうち「食の安全・安心の基準」のほうに関心が高く、農家の「関税撤廃反対」の声は農家のエゴだと思っている。

 本来であれば20年前から国民にこのことを理解してもらう努力を国がしなければならなかったが、農家という票田がそのことを妨げてしまった。今回も議員に踏み絵をさせているが、国民の意識改革を妨げているという認識は当事者には無い。しかし、今後の対処方法を国民全体で考えてゆくためには、この議論を農家自身が国民に向かってしなければ展望は開けない。

 地域政策というと国民にとってはなかなか理解しづらいと思う。実は地域政策とは「命の政策」のことなのだ。3.11から2年が経過したが、国民のこころは確実に変化を始めている。「米」という「商品」を価格や安全性を議論するのが「産業政策」であり、大規模化によって国際競争力をつけることも大切だろう。しかし農業は「米という商品」を作っているだけでなく、米を通じて「人間の命」を育み、更に米を作る過程で「様々な生きものの命」も育んでいる。また様々な生きものによって「米の命」も育まれている。「地産地消」ではなく「地産地生」であり、「絆」は人間同士だけではなく地域で一緒に生きている様々な生きものとの「絆」なのだ。これは金銭では換算できないし、「命」は金銭で換算するものではないのだ。

 現在の有機栽培や特別栽培は「食の安全性」を目的に主として作られているが、実は様々な命を育むために農家が努力をしていることを伝えなければならない。そうすれば中国から大量に有機JAS認定の安い米が入ってきても、命を育んでいる農家は「消費者」ではなく「国民」が支持してくれる。国に対して要望を出すだけでなく、農家自身が「命を育む努力」をしていることを国民に訴えることが、今、一番大切なのだ。
残されている時間は殆ど無い。