アダム・スミスの国富論と感情道徳論(その2)

前回はアダム・スミスが生まれた時代のイギリスの経済的背景を書いたが、少し思想的時代背景を考えてみたい。何故ならば、歴史に名を残した人は英雄であれ悪人であれ、その時代と社会が作り出したものであって、その社会状況を的確に把握して行動した人間なのだ。

アダム・スミスが生きていた18世紀は啓蒙の世紀だと言われている。「啓蒙」とは人間の中にある理性の力を重視し、科学知識の進歩と普及によって人々を無知の状態から解放することを意味した。自然界を聖書にかかれているように理解するのではなく、実験と観察を通じて客観的にとらえ、その結果を合理的に説明することが試みられた。それはデカルトの2元論に端を発しており、その典型例がニュートンの物理学であった。ニュートンは物質の位置と運動量が分かれば物質の過去も未来も分かるという万有引力の法則を1687年に発表した。このようにものごとを宗教的権威に頼ることなく客観的に理解する方法は自然界だけでなく人間界にも適用された。それが啓蒙思想であり、教科書に出てくる啓蒙思想家としてはホッブス、ロック、ルソー、ヒューム、ヴォルテールモンテスキューディドロー、ダランベール等、何となく世界史の教科書に書いてあった記憶がある。受験勉強では彼らの名前と著書を覚えることに一生懸命で、彼らがどんな考え方であったか学生時代殆ど知らない。私が本当の勉強を始めたのは30歳以降で、アダム・スミスは60歳すぎてから勉強している。

このような時代と社会背景のなかでアダム・スミスは人間の感情行動を道徳感情論のなかで、人間の経済行動を国富論のなかで法則として著した。このようにアダム・スミスの著書は、経済学というよりは社会生態学と呼ばれる学問領域である。だから18世紀の社会と21世紀の社会の違いを認識したうえで、読まないと理解できない。

私は経済学という学問をあまり信用していない。何故ならば、経済学という学問は自然の法則を発見する自然科学とは異なり、人間の経済行動を社会的に分析する学問であり、それは時代とともに変遷するからだ。ケインズ理論大恐慌から抜け出すための一つの施策であり、21世紀の日本の社会に理論を当てはめて公共投資を展開することは社会生態学とは言えない。投資に対する考え方も18世紀のアダム・スミスと20世紀のケインズと21世紀では異なる。国富論の時代の投資は、ベニスの商人の利子とは異なり、物質的な富を生み出すために使われていた。すなわち国民的豊かさを実現するために投資があった。しかし21世紀の投資は金が金を生む「投機」になり、国民の豊かさとは関係がない。人間の労働が必需品や便益品の生産に向かわず、交換媒体にすぎない貨幣に向かうのは全く愚かだとアダム・スミスは書いている。

アダム・スミスは富と幸福の関係で「最低水準の富」の必要性を説いている。最低水準の富がないと人間は悲惨な状態に陥る。つまり貧困の状態にある人々の悲しみや苦しみに対し、他人は同感しないし軽蔑し無視する。この他人による貧困と無視が、人間の本性である希望と意欲を失わせるから最低水準の富が必要なのだ。この最低水準の富が現在の最低賃金であり、これが「幸福とは、健康で、負債がなく、良心にやましいところがない」という状態を創り出す。経済が発展している社会では雇用が増大し、多くの人びとが最低水準以上の富を手に入れることができる。アベノミクスの目指すところはここであるが、どうも実感できない。

「最低水準の富」があれば心の平静が保たれ幸福になるはずだが、社会生活のなかで人間は「水準以上の富と地位」を求めるようになる。何故ならば、人間は富や地位に値する人物になるよりも前に、それらを「獲得することを優先」するからである。この富と地位への「野心」が「見えざる手」であり、社会生活における「他人の眼を気にする」という人間の本性なのだ。アダム・スミスは「見えざる手」富と地位に対する野心は、社会の繁栄を推し進める一方、社会の秩序を乱す危険性があると指摘している。
世間の尊敬と感嘆を得るためには2つの道があり、「徳への道」と「財産への道」であると説明している。財産への道とは、富や地位を獲得して世間から称賛を得る道であり、徳への道とは、徳と叡智を獲得して公平な観察者から称賛を得る道のことである。普通の人間はこの2つの道を同時に歩もうとするが、世間は見えにくい「徳と叡智」ではなく、見えやすい「富と地位」によって人間を評価してしまう。更に、人間は自分を本当の値打ち以上に見せようとする心「虚栄心」があるので、徳への道の重要性を認めつつも財産への道を優先させてしまうのだ。

私達が財産への道を歩む場合、2つの方法がある。一つは自己規制と自己研鑽によって歩む方法であり、もうひとつは他人の足を引っ張る方法である。財産への道の競争がフェアプレイの精神に則って行われれば、社会は「見えざる手」に導かれて繁栄する。しかし競争がフェアプレイのルールを無視して行われれば、社会の秩序は乱れ「見えざる手」は機能せず社会の繁栄は実現しない。アダム・スミスが容認したのは、「正義感」によって制御された財産への道なのだ。