輪廻転生と成長の限界

ローマクラブ成長の限界の40年総括の文章を書きながら感じていたことがある。それは時間軸を長くとった場合に自分は必ず死んでいるのに、その時の視点を持って自分は行動できるのかという疑問である。
現在の消費税や社会福祉、更に国家の債務問題、そのどれをとっても未来の子どもたちに負担をかけることは間違いない。しかし私たちの世代は未来の子供のために頑張るという言葉だけで、自分が何をするという決意は聞かれない。
原発の再稼働問題にしても電気料金の値上げには文句を言うが、再稼働をしないための家庭内電力量を設定し、それを実現するための行動をしていない。節電と言いながらクーラーをつけながら冷えたビールを飲んでいる。冷えたビールを飲みながら、未来の子どもたちの不幸を心配している。
消費税が上がり、年金は少しずつ減額され、医療費負担も高くなり、年金生活における可処分所得は減少しているが、自分が死ぬことはないので死に物狂いの行動をしない。
憲法改正問題、集団自衛権問題等、近い将来、徴兵制が導入されるかのような情勢にも関わらず、自分は軍隊に行かないので死に物狂いの行動をしない。
東南海地震等、何時、自分の地域で大震災が起きてもおかしくないのに、防災グッズを買い込むだけで地域の絆に関心を持たず、自治会活動にも参加しない。関心は持っていても自分でどのように行動してよいか分からず、市役所から配布された避難地図だけを眺めている。
私はここで団塊の世代の人間を非難しようとしているのではない。私たちの生きる考え方の基本に何かが欠けているのではないかと思うからここで書いている。それは私たちの年齢になると様々な問題から「逃げきれる」と心の隅で思っているからではないか。子供や可愛い孫がいるから、そんなことは思っていないと反論する人もいると思う。しかし反論する人は、自分の子供や孫の未来に対して、現在、何をしているのか、明確に話せるのだろうか。それはお金や住む家、株券等の財産を残すことではない。子供や孫が震災で困った時に、周囲の人達が自分の家族を助けてくれるような人間関係の絆を作る努力をしているのだろうか。何かトラブルがあると直ぐに市役所にクレームの電話を入れてはいないか聞きたい。自分たちで話し合いをして解決する努力をしているか聞きたい。このような普段からの積み重ねがいざという時に一番役に立つのは、釜石の小学生が証明している。
この「逃げ切り理論」はこれまでの人類には必要が無かったものであるが、ローマクラブが指摘しているように今や人類が意識を改革しない限り、成長の限界を迎えることは間違いないが、私たちは心の片隅でこの逃げ切り理論で安心しようとしているのではないか。しかしこの危機意識に対処する意識改革が逃げ切り理論であっていいはずがない。この逃げ切り理論を克服する方法として私は「輪廻転生」の考え方を提案したい。
一般的に輪廻転生というと宗教理論だといって耳を傾けない人が多いが、これは哲学理論なのだ。宗教と哲学の違いを説明するのは難しいが、私が作った表を見ていただきたい。宗教は宇宙や自然を「現象」としてとらえ、その現象に対する畏怖や死後の世界に対する恐怖に対する神の言葉を預言者が預かり、それを普遍的な言葉に変え、経典にして生活規範等を通じて教団が教える活動である。哲学は宗教と同じく宇宙や自然を現象としてとらえるが、その現象が生ずる理由を「原理」として考え、その原理を言葉や数式に変えて議論を戦わす活動である。宗教は一時期、天動説に固執して自然科学の発達を阻害したが、哲学は自然科学発達の生みの親となり、その後の産業革命へと発展していった。しかしその産業の発展が今日の科学万能主義を生み、福島原発事故を引き起こしてしまった。デカルトの物心2元論によって科学は発達したが、もう一度、物心1元論に戻り、人間としての「心のあり方」を考え、行動する時期に来ているのではないか。それがローマクラブの成長の限界の総括のなかに書いてある意識改革なのだ。
そこでもう一度、哲学の視点で輪廻転生を考えてみたらどうか。自分の物理的な身体は逃げ切り理論によって終末を迎えるが、自分の魂は孫の時代に生まれ変わり新たな身体に入る。更にその魂は転生しながら永遠に終末を迎えないので逃げ切り理論は成立しない。これが哲学としての輪廻転生理論であり、現在の自分の魂が永遠に持続することを認識すれば、自分の魂の将来のために現在死に物狂いになるのは当然である。自分の魂が将来宿るであろう子供が不幸になることは即、自分が不幸になることであって、逃げ切り理論は未来の自分を否定することになる。
ローマクラブが提唱している人類の意識変革とは、宗教ではなく普遍的な哲学として人類が輪廻転生理論を受け入れことではないだろうか。