大嘗祭と憲法

平成19年5月1日に現在の皇太子が新天皇として即位され、皇位継承を内外に示す「即位の礼」が同年10月22日に国事行為として行われることが発表された。それと同時に大嘗祭が11月14日15日に皇室行事として行われることも発表された。
このニュースを聞いて殆どの国民は即位の礼大嘗祭の違いが分からず、国事行為と皇室行事に分ける意味も分からないと思う。何故ならば、大嘗祭天皇が新たに即位した年の新嘗祭のことであり、現在の天皇が即位した30年前に行われた際にあまり国民的議論になっていなかったからだ。そもそも現在の日本人で「新嘗祭」という言葉を聞いてきちんと答えられる人は2割か3割で、11月23日は勤労感謝の日として認知しているだけなのだ。それは私が数年前まで明治神宮新嘗祭を開催していたので、周辺の人たちの反応を知っていたからである。
かく言う私も30年前の即位の礼の時には西ドイツに駐在しており、大嘗祭の時には帰国直後であり、新嘗祭との関係性などは殆ど知らなかった。その後、ヨーロッパで感じた西洋文明とアジア文明の違いは何処にあるのか調べ始めた。その結果、違いの原因が「神」であることに気づき、その背景として稲作起源や稲作信仰に興味を持つようになった。
即位の礼憲法1条に書かれている天皇の国事行為であることは殆どの国民が理解できると思うが、大嘗祭とは何かが分からない。新嘗祭は稲作神事として天皇が国民を代表して収穫に感謝し、豊作を祈願する行為である。そして「天皇が即位した年の新嘗祭」を大嘗祭と呼び、稲作神事の継承者としての儀式なのである。今回も大嘗祭を国事行為ではなく皇室行事としたのもそのような理由による。この仕組の起源を調べてみると、天武持統天皇の頃から整備されたようである。この時代は大化の改新で知られているように、天皇家の権威が確立されつつある時代であり、律令国家として政治体制が確立された時期に当たる。政治体制としては律令制度(太政官制)が中国から導入され、天皇陛下即位の礼は唐の様式を真似て行われるようになった。その時に政治体制の確立と合わせて行われたのが朝廷の祭祀を司る神祇官制であった。古事記日本書紀に書かれている律令国家として国民の安全を祈願する儀式として神祇官により新嘗祭等の神事が行われるようになった。その神事を取り仕切る神官の元締めとして天皇が存在し、その神官交代の儀式として大嘗祭が行われるようになった。伊勢神宮天皇家の宮として位置づけられたのもこの頃である。
その後、明治維新の時に国家神道が他の宗教の上に位置づけられ、近代国家の思想的支柱として国家神道が位置づけられた。ポツダム宣言受諾後の占領政策により昭和20年に国家神道を廃止する神道指令が出され、翌年には天皇は現人神ではなく人間である宣言が出された。昭和22年に施行された憲法においても天皇は象徴であり、その神性は否定された。昭和23年に施行された祝日法案で11月23日は勤労感謝の日となり、新嘗祭という言葉は国民の前から姿を消してしまった。その結果、戦後教育のなかで現代史を学んでいない私達としては新嘗祭はもとより大嘗祭という神事と憲法との関係性が理解出来ていない。大嘗祭は皇室行事というプライベートなことなので憲法違反では無いというのか公式見解であるが、そのような理解のままでいいのだろうか。私はここで憲法論争や天皇論争をしようというのでは無い。しかし戦後70年の間、国民としてネグレクトしてきた課題は自衛隊とともに象徴天皇であることは間違いない。憲法改正を議論するのであれば、正面から取り組む糸口がこの辺にあるのではないかと感じている。様々な角度から納得の行くまで掘り下げてみたい。

無宗教と自然法

明治維新まで日本人の概念に無かったもの、それが「宗教」という概念と「自然(シゼン)」という概念である。現在では普通に使っている言葉であるが、2つとも西洋文明の概念であり江戸時代までの日本人には理解出来なかった。
日本人は海外旅行に行くと入国カードに宗教の欄があり、なんと書いてよいか戸惑っている。真言宗だとか日蓮宗ではおかしいし、仏教と書くのも何となく変だと感じている。その時に殆どの日本人が感じることは、私達には宗教が無いのではないかと。しかし日常の生活では神様も信じているし、法事は檀家のお寺で行っているし、クリスマスは祝うがキリスト教では無い、分からなくなって最後は空欄で出してしまう。空欄でだすと外国人の乗務員からは変な顔をされるという経験を持っている人は多いと思う。
その原因は「宗教」という言葉が実は1神教の世界の概念であり、世界の殆どの国の宗教が1神教だからなのだ。1神教に対して日本は多神教であると言われているが、信じる神様の数の違いなのだろうか。実はそれが日本人の陥っている誤解なのだ。多神教というのは世界のどこの文明でも初期に見られ、人間が生きていくうえで自然を畏怖し、様々な自然現象を神としてたたえることは当然のことであった。それを一神教の西洋文明では原始宗教(アニミズム)と呼び、マヤ文明やアズテカ文明等、殆どのアニミズムの文明は世界から姿を消してしまった。これは決して原始宗教だから文明的にも原始的なものだということを意味するものではない。
日本は仏教が入って来る前は縄文時代火焔土器土偶に見られるように一定の先祖に対する儀式があり、本格的な稲作が伝えられた弥生時代以降はシャーマンによる呪術信仰がされていた。その後、古墳時代を経て国家が形成される過程で仏教が入ってきた。蘇我氏物部氏による仏教と豪族による在来の神々の信仰が衝突した時期もあったが、本地垂迹という形で神と仏の融和がなされた。それは古代国家形成の過程でも仏教と同様に唐からの律令制度が導入され、全国の神々の統一を図る天皇家の神が伊勢神宮として整備され、それが神祇官太政官という律令制度として整備され明治維新まで続いた。明治維新廃仏毀釈まではお寺と神社が同じ場所に共存しており、私達の家庭に神棚と仏壇が共存するのはこのためである。これが日本の宗教の形であり、他の宗教を排斥する一神教とは異なる。そのために明治維新まで日本人には「宗派」という概念はあったが、宗教という概念が存在しなかったのだ。キリスト教においてもヨーロッパに普及する過程で、現地にあった神々と融合しマリア信仰等の形を変えて今日に至っている。このようにアニミズムと呼ばれる原始信仰が今日まで残っている文明国は日本だけであり、神の存在を否定する「無神教」とは異なる。
日本人のこのような信仰の結果、自然界の神々は常に人間の生活とともにあり、一神教の創造神という発想は全く無かった。創造神は自然界を創造し、その自然界を管理するために人間を創造したので、西洋文明では人間の管理する対象として自然が存在した。日本文明では自然の存在は人間の存在と同じなので英語でいうnature(自然)という概念そのものが無かった。明治維新以降にnatureという概念を表現する漢字として「自然」という字を当てたが、その字の本来の読み方は「ジネン」であった。現在の日本人は本来の「ジネン」の意味を忘れ去り、西洋文明で使われている「シゼン」という概念に染まってしまった。
Natureという概念は実はもう1つあり、それは「自然法」である。自然法でいうところの「シゼン」の概念は明治維新前の日本人が使っていた「ジネン」であり、「自ずから然る」という意味である。歎異抄に出てくる「ジネン」という言葉と同じである。この自然法理論はギリシャ哲学の倫理とキリスト教の神定法理論をアウグスティヌスが合体させたものである。その後、近世において市民国家の理論的背景として自然法の概念がグロティウスやホッブスによって整備され、今日の民主主義の流れを形作っている。1992年以降活発になった地球温暖化生物多様性等の自然保護運動がヨーロッパを中心に始まったのは、一神教の神から託された自然の管理責任から来ているものなのだ。原発廃止の取組もチェルノブイリによる自然の生態系破壊が神定法に違反しているという意識から来ている。
日本人の環境問題への取組は客観的対象物としての「シゼン」を保護することだけに向けられ、人間の心の問題も含む「ジネン」の考え方が欠落している。もう一度、日本人としての心のありようを考え直さなければならない。

ベーシックインカムとボランティア活動

先日、テレビでベーシックインカムについて放映されていたが、ネットで調べてみると以下のように書いてあった。
就労や資産の有無にかかわらず、すべての個人に対して生活に最低限必要な所得を無条件に給付するという社会政策の構想。社会保険や公的扶助などの従来の所得保障制度が何らかの受給資格を設けているのに対して無条件で給付する点、また生活保護や税制における配偶者控除など世帯単位の給付制度もある中で個人単位を原則とする点が特徴である。すべての人に所得を保障することによる貧困問題の解決に加え、受給資格の審査などが不要なため簡素な制度となり管理コストが削減できること、特定の働き方や家族形態を優遇しないため個人の生活スタイルの選択を拡大できることなどが、メリットとして指摘されている。一方で、膨大な財政支出の財源をどうするか、導入によって誰も働かなくなるのではないかなどの批判もあり、論争が繰り広げられてきた。ベーシック・インカムに類する考え方は、資本主義社会の成立期から見られ、1960〜70年代には欧米で議論が展開されてきた。さらに80年代以降、働き方の多様化や非正規雇用・失業の増大、家族形態の多様化、経済活動が引き起こす環境問題の顕在化など、これまでの福祉国家が前提としてきた労働や家族のあり方が変わってきたことを背景に、従来とは異なる考え方の所得保障構想として注目を集めている。
残念ながら日本ではこのベーシックインカムの本格的議論はなされておらず、働き方改革の議論でも考慮されていない。それは「労働の対価としての賃金・所得」という概念が強すぎるからではないかと思われる。人間の労働を「稼ぎ」と「仕事」に分けて考えることを内山節氏は提案しているが、そのとおりだと思う。用水の修復や入会地の整備等は地域全体の賦役であり、それには労働対価としての賃金は存在しない。企業が人間の労働を稼ぎの尺度だけで考えると、ブラック企業となってしまう。企業活動には「利益の追求」と「社会貢献」の2つ側面がある。
ここ数年、学生と一緒にボランティア活動の研究をしているが、ボランティア活動を「社会貢献活動」としてとらえ、その原則の1つとして「無償労働」が掲げられている。その結果、学生は「就職」活動の一貫としてボランティア活動に参加している。私はそれは違うと思う。ボランティア活動は労働のうちの「仕事」の分野であり、仕事だから社会貢献であり無償なのだと思う。しかし、これにもう1つ加えにければならないのが「ベーシックインカム」という視野階制度である。ボランティア活動はベーシックインカムと一体となることによって社会に定着し、これからの若者が活躍する社会の姿になると感じている。所得補償については25年前から試みられた「農家の直接支払い」があるが、日本国民には農業労働における「仕事」の部分が見えず、EUのようにはなっていない。農業労働が地域環境を保全していることに対して「地域環境保全費用」の支払いをEU市民はしており、その理解が未だに進んでいない。その結果、日本では気候変動枠組みや生物多様性の取組が進展せず、「有機農業」が「嗜欲の安全」という視点だけで語られている。明治維新前まで「ジネン」という意識を持っていた日本人が一神教EUの後塵を拝しているのである。

有機と持続可能

ベーシックインカムとボランティアのところでも書いたが、日本での有機農業はなかなか進展していない。その理由は何故かと言うと、国民の殆どが有機農業は単に化学合成物質を使用しない「食の安全」を志向する農業だと思っているからだ。有機農業という言葉はハワードの「農業聖典」に書かれている「オーガニック」を「有機と訳したところから始まっている。別に訳し間違いではないが、オーガニックの本来の意味合いは「持続可能」という意味であり、それは「サステイナブル」という言葉で表されている。農業聖典が訳された昭和の40年代に「持続可能農業」ととう言葉を使っても殆どの日本人はその言葉の意味を理解出来なかったであろう。当時はレイチェルカーソンが書いた「沈黙の春」が話題になっており、そこに書かれていた農薬問題の影響から有機農業という訳に落ち着いたものと思われる。つまり化学農薬等の無機化合物つまり化学合成物質を使用しないのだから「無機」の反対語として「有機」という言葉が使われたのである。
私の有機との出会いは、30年前のヨーロッパ駐在時に日本種野菜の契約栽培をしているオランダ農家の中に有機栽培に取り組んでいる若者がいたことから始まる。彼とはゴボウの契約栽培等をしていたが、家に上がり込んで有機栽培に対する様々な意見交換をしたことを覚えている。当時の西ドイツにはデメーター等の有機農産物の認証機関や店舗があったがメジャーでは無かった。その後、日本帰って暫くの間、違う仕事をしていたが、平成7年にJETOROがアメリカの西海岸の有機認証の仕組みを紹介したのを契機に有機の取組を開始した。取り組むなかで当時の日本では珍しい有機農産物を取り扱っている種山ヶ原という会社と出会った。彼はアメリカで長くヒッピーとして放浪しており、アメリカの有機農業関係者を良く知っていた。彼からの情報とヨーロッパでの経験を元にして全農で有機産直プロジェクトを提案した。肥料農薬を大量に取り扱っている全農で有機の取組をすることは将に異端児であった。しかし平成8年には種山ヶ原の協力を得て、アメリカオーガニック研修を企画した。内容的にはアメリカを縦断しながら、オレゴンティルス等の有機農産物の認証機関や有機農産物の生産農家、更に有機農産物を取り扱っているホールフーズ等のスーパーを見学して意見交換をした。その時に印象的なことは、自分たちは有機農業をアジアから学んでいるといって、日本の肥溜等が写っている写真が掲載されている書籍を紹介してくれた。将に有機が目指す地域循環型社会が日本にあったのである。更に東海岸のウォルナットエーカーズでは有機農産物の生産から加工・販売・小売までおこなっており、そこには地域雇用に貢献する姿があった。テキサスのナチュラビーフの牧場ではブロックローテーションを基本とした生産はもとより、屠畜・解体・部分肉製造を個体識別番号別に行っており、その後の日本でのBSE対策に役立った。その年には日本で初めての有機農産物の基準づくりを目指したDEVANDAに参加した。平成9年に有機産直リーダー協議会にも参加し、国内有機生産者のネットワークの一員となった。その当時に加藤登紀子の旦那さんの藤本さんと仲良くなり、様々な夢を語ったが残念ながら今はもういない。
その後、偽有機ダンボール事件が起き、農水省は農産物流通の表示適正化の委員会で有機という言葉の定義を定め、平成13年に有機JAS法という形になった。当時の委員会に私も出席していたが、当初は有機農業の普及推進を図るための集まりだと思っていた。しかし残念ながら検査認証制度を伴う表示の適正化に終始してしまい、有機農業の推進に関する法律は5年後の平成18年までかかり、それも議員立法という形で成立した。
このような形で日本の有機農業は推移してきたので、検査・認証制度だけが表に立ってしまい、有機農業が何を目指すのかの議論がお座なりになってしまった。有機に対する適正な表示がされた後も、消費者は肥料農薬を使用しない農産物が有機農産物だという理解をしていた。それは「食の安全」の視点だけで有機農産物を見て、そのコストをEUのCAP政策のように直接支払いという税金で賄うという議論にはならなかった。有機の生産者もこの間、産直相手先である生協等の顧客確保を優先してしまい、地域全体における有機農業の役割の議論が展開できなかった。平成12年には環境3法が出来て、畜産堆肥を対象にした地域循環型農業への対応を求められたが、畜産有機農家が殆どいなかったので有機とは別問題として取り組まれた。本来であれば地域循環型農業と有機農業をセットで考えれば「持続可能な地域」という概念が生まれ、それは有機農産物に価格転嫁するものではないということが分かる。
2012年にローマクラブの成長の限界の総括が出されたにもかかわらず、アベノミクスでは経済成長を追い続けている。本格的な人口減少社会に突入している日本で未だに高度経済成長社会を夢見ているのはおかしいのではないか。それは地域社会に根付き、持続可能な生き方を模索しない限り見えて来ないのではないか。有機農業を支える「サステイナブルシステム」として直接支払いが存在するのであるが、残念ながらベイシックインカムと併せて本格的な認識には至っていない。日本人の心のありようをもう一度、考え直さなければならない。