壊れた本能

先日の日経新聞に面白い記事が掲載されていた。筆者は東洋英和学長の村上陽一郎氏であるが「あすへの話題」というコラムであった。ヒトは哺乳類の頂点にいるというのが常識であるが、他の哺乳類との表面に現れた違いは著しい。他の哺乳類にも同じ種のなかでの仲間殺しは存在するが、一挙に数十万の仲間を組織的に殺す種はいない。他の哺乳類はライオンのように空腹でない限り他の種は殺さないが、ヒトは楽しみのために殺す。性行為でも食べることでも、他の哺乳類なら本能によって制御されている行為を、ヒトはひたすら欲望の赴くまま、ただ楽しみのために際限なく追求する。あたかも本能が壊れているかのように。ヒトは自らのなかには自然に備わった「際限」がないために、行為の限界を自分で作り出さざるを得なかった。宗教のなかの倫理は、壊れた本能を補う抑制機構のように見える。
ここまで読んできて、私の頭のなかに浮かんできたのは「リーマンショック」と「生物多様性」であった。リーマンショックは将にヒトの際限のない欲望が引き起こしたものであり、その後の反省として「倫理ある経済活動」という言葉が使われるようになった。生物多様性はヒトという特定の種による他の種に対する皆殺し問題のことである。聖書のなかで創造主である神は自然を管理させるために人間を神に似せて創ったとあるが、どうもその創った時に他の種に備わっている本能を壊してしまったようだ。名古屋で開催されたCOP10のなかでも、壊れた本能をどのように修正するかが会議の主題であったにも係わらず、生物多様性の原資を巡って際限のない欲望が露呈した会議になってしまった。今回のTPPを巡る議論も、経済界と農業界が対峙して、それぞれの経済的損失の議論をしているが、これも壊れた本能の議論である。COP10で水田決議をしたにも係わらず、水田が育んでいる様々な生きものの命の問題がなかなか議論の表面に出てこない。農業の構造改革の議論は国際競争力を持つ規模拡大の政策以前に、経済的価値だけで議論されてきた農業に対する基本的価値間を構造的に転換することではないのだろうか。その議論無くして、戸別所得補償の議論をしても農業の構造改革にはつながらない。EUや韓国の農業構造改革は、将にその価値転換を経て今日に至っていることを忘れてはならない。
新聞のコラムでは壊れた本能を持ったヒトという種は、壊れた本能に代わるべきものの制御なしには、人間でいられないことに気付くべきではないかという結びであった。TPPの本質的議論をする際に必要な、壊れた本能に代わる制御とは一体何なのだろうか。私は田んぼの生きもの調査が壊れた本能を制御してくれるのではないかと思っている。