【失われた17年】ECの戦略転換に学ぶ

 ガットウルグァイラウンド交渉は日本にとっては米の市場開放という大問題であったが、グローバルな視点から見た時に、その交渉の背景と着地点とその後の世界の展開は、どのようになったのかを総括しなければならない。
ガットウルグァイラウンド交渉とは将にECとアメリカの喧嘩であり、日本だけの視点でみると大きな間違いを犯す。ガットとはそもそも何かという理解がないと見えてこない。第2次世界大戦終了後に、2度と戦争を起さないための様々な議論が行われ、国際連合等の様々な組織が誕生した。その議論のなかで、戦争原因の一つとして世界経済のブロック化があげられた。小学校の歴史の教科書に日本が戦争に突入した原因の一つとしてABCD包囲網によって資源が不足し、資源を海外に求めるために戦争をしたと書いてある。このように世界経済のブロック化をしないためにガット多角的貿易交渉という仕組みができ、自由貿易が促進された。将に世界平和を実現するために自由貿易の守護神としてガットが存在したのである。
 1970年代までは世界の食料問題は飢餓の原因としての食料生産不足の問題だったので、農産物は東京ラウンドまでは殆ど多角的貿易交渉の対象にならなかった。しかし1980年代に入ると飢餓の問題が生産不足の問題ではなく通商貿易問題であることが分かってきた。つまり食料生産は過剰傾向にあるが、発展途上国に必要量が支払い可能価格で回ってゆかないという状況であり、自由貿易の大きな問題であるという認識となった。
一方、ECはCAP政策によって1980年代以降、食料輸入国から食料輸出国に転じ、域内生産量の増大とともに大きな財政負担を抱えていた。1990年時点ではEC総予算5兆円の3分の2が農業予算であった。
CAP政策とはEC域内農産物価格を世界価格の変動から隔離する政策であった。ECは毎年、設定する農産物ごとの「目標価格」を①輸入課徴金(国境措置)②買い上げによる価格介入(国内支持)③輸出払戻金(補助金)によって維持していた。①国境措置は1970年代中半から様々な品目でアメリカと紛争を引き起こし、通商法301条による報復措置とガット提訴が続いていた。②国内支持は生産奨励的性格が強かったので域内では森林の農地化と化学肥料による環境破壊を引き起こした。更に域内生産の増加対策として実施された減反政策も効果が少なく、1991年当時のECの在庫状況は「牛肉やバターの山、牛乳やワインの海」と呼ばれていた。③補助金は過剰在庫問題が原因で1980年代から顕著になり、これに対抗するアメリカの補助金付き輸出とともに世界の農業市場を歪めていた。
 このような状況の中でガットウルグァイラウンド交渉が行われたのであり、日本の報道では「米の市場開放」という文字だけが大きく印刷されていた。その結果、アメリカとヨーロッパの農産物交渉なら日本は関係無いというのが当時の大方の国民の認識であった。日本の農家は米が市場開放されたら大変なことになるので「ムシロ旗」を立てて反対運動をしていた。ヨーロッパの農家も日本と同様に「ムシロ旗」を立てて反対運動をしていた。しかし問題の本質は世界の平和を金科玉条とした自由貿易という仕組みであり、世界各国の今後の経済戦略を大きく左右するものであった。この状況をきちんと読みきり、国内の農業対策を戦略性を持って確立したのがEC後のEUであり、それに失敗したのが日本であった。最近のTPP議論のなかでGDPに占める農業の割合や全人口に占める農業人口の割合が引き合いに出されているが、それらの人は基本的認識が欠如している。ガットウルグァイラウンド交渉当時のECの農民人口比は1960年の21%から1986年は8%であり、GDPに占める農業生産比は1970年の5.4%から1989年の3.4%へとマイノリティであったことを肝に銘じなくてはならない。