いただきます

 学校給食の時間に子どもたちに「いただきます」という言葉を強制するのはおかしいのではないかという問題提議をした先生がいた。その先生はとんでもない勘違いから、そのような発言をした。先生が勘違いをした理由は「いただきます」という言葉の対象が農家だと思っていたからだ。何故、毎日、子どもたちに農家に感謝することを強制するのか疑問に思ったのだろう。この「いただきます」という言葉は不思議なことに世界中で韓国語と日本語しかない。韓国語では「チャルモッケスムニダ」と発音する。実は「いただきます」という言葉は人間が様々な命をいただいていることに感謝する意味。「命をいただく」という概念は食肉の場合は牛や鶏の命との関係で理解できるが、お米や野菜の場合はなかなか分からない。学校の先生が誤解をしてしまうのも無理がない。
 そこで「命をいただく」ということを先生や子どもたちに実感してもらうためにどうしたらよいか。私は即座に答える。田んぼの生きもの調査を体験しよう。田んぼには5668種の命が存在し、その命はそれぞれ関係性を保ちながら稲は育つ。田んぼの土の中には沢山の微生物バクテリアがいて、それをミジンコが食べ、それをイトミミズが食べ、それをオタマジャクシが食べ、それを鳥が食べる。この命の連鎖のなかで稲は育ち、そのお米を人間が食べている。昔はお米だけでなく、田んぼのドジョウも魚も貝も食べていた。それを理解すれば「命をいただきます」という言葉の意味が実感できる。更に、田んぼではイトミミズやユスリカがトロトロ層の「土」を作り続け、その命の営みの結果である「土」が私たちの未来の子どもたちを育んでいる。今回の放射能被害や塩害対策として水田の表土を削ることは本当に正しいのだろうか。だれもミミズの努力を認めていない。
 農業は食料を生産するだけでなく、このように様々な命を育んでいる。農業が工業と同様に論じられない理由はここにある。近代農業がその生産性だけで論じられてしまうと、そこには様々な命が介在する余地がなくなる。近代農業で水田は米の生産性だけで論じられてしまい、本来的に田んぼが持っていた多様な魚介類や藻類の生産は無視されている。化学合成物質を多投入する近代農業では商品作物である米の価値しか認めていない。その結果、稲だけが育つ水田になり、稲は多様な命から生ずる「気」を受けない稲になり、元気の無い米になってしまう。
 国連食料農業機関FAOは米の生産性だけに焦点を当てた食料増産対策よりも、田んぼの多様な命の生産方式の方がより持続可能な飢餓対策であると結論付けている。放鳥されたトキのために田んぼの生きものの種類や数を増やす取り組みをしている佐渡がFAOの世界農業遺産に登録されたのは将にこの「いただきます」の論理なのだ。FAOがこんな取り組みをしていることを殆どの人は知らない。知らないから今回の世界農業遺産と同じ国連の機関であるユネスコ世界自然遺産の違いが分からない。
 もう一度、命を育む農業が本来の農業の姿であることを確認し、商品経済の土俵上の生産者と消費者という関係性を超えた絆を作ることの大切さを確認しよう。東日本大震災の復興プランには大規模化や効率性という近代農業の米だけを指標にした考え方しか見えない。田んぼにいるどじょうやヤゴの命のことを全く考えていない。3.11で国民が普通の暮らしと命の大切さを実感している時に何故、命の大切さを復興のシンボルにできないのか分からない。多分、「いただきます」という言葉を食事の時に大きな声で言っていないのではないか。普通の暮らしの復興はそこからしか始まらない。