進化論と放射能汚染

 先日、放射能汚染の被害についてのテレビ討論を見ていて気分が悪くなった。悪くなった理由は討論内容が人間にとっての食の安全ばかりで、汚染地域の動物や植物の放射能汚染問題が全く議論されていないからであった。これまでのニュースでは汚染地域に放置された家畜やペットのことが報道され、番組参加者もそのことは全員知っているはずだ。しかし番組では放射能汚染の基準が曖昧であるとか、検査方法についてもサンプル検査ではなく全量検査すべきだとか、人間の食に関する意見を中心に番組が進められていた。番組のテーマが風評被害だったので仕方が無いこともあるが、あまりにもヒステリックな内容だった。私はここで基準問題や検査問題を議論してはいけないなどと言うつもりはない。もちろんBSEの時のように全頭検査をして国が安全を確保することの必要性については全く同感である。しかし既に放射能に汚染されてしまった日本で、今後、どのように放射能と付き合って生きてゆくのかということが今、一番議論しなければならない事ではないだろうか。
 私の仲間が新聞の論説でこんなことを書いていた。放射能汚染地域の水田に水を入れた百姓に対して、田んぼに水を入れれば様々な生きものたちがそこから再生する。もちろん米作りはできないが田んぼは米だけを作っているわけではなく、様々な生きものの命も同時に育んでいる。田んぼに水をいれた生産者こそ本来の「百姓仕事」をしている。汚染地域にいながら、米作りが出来ないことに絶望するだけでなく、田んぼに水が入らないで絶望するほかの生きものに対する眼差しをもつことの大切さを訴えている。テレビ討論では将にこのような3.11後の「心のありよう」について討論をして欲しかった。
 こんな思いでいたところテレビのチャネルを切り替えると、ダーウィンの進化論の番組をしていた。その番組のテーマはダーウィンの進化論の発表が遅れた理由であった。私は進化論の発表が遅れたことも知らなかったが、進化論が当時の社会的価値観に影響を与えたことは知っていた。進化論は人々が信仰していたキリスト教の教義に反するものであった。キリスト教では「神は地上の生きものの管理を神の姿に似せて作った人間にやらせた」と旧約聖書に書かれている。ノアの箱舟伝説でも箱舟に乗せるつがいの動物を選択しなさいと神の命令を受けたのも人間のノアであった。そこから導き出されるものは、動物は人間に管理されるものであり人間と一体のものではないとする考え方。進化論では人間の先祖が猿であると論じているのだから、旧約聖書を真っ向から否定するものなのだ。地球が太陽の周りを回っているという事実を発表したカリレオが、異端審問で地動説を捨てられさせた歴史を知っていたダーウィンが、進化論を発表できなかったことは当然のこと。
 ここまでは学校で習うところであるが、進化論の背景はもっと奥が深かった。実は進化論は当時の奴隷制度批判につながる考え方だった。キリスト教では神に選ばれた人間は白人であり、黒人は神に選ばれた人間では無いので他の動物と同じだと見られていた。進化論が発表されたのが1859年であり、奴隷解放宣言が出されたのが1862年。この前後の関係から類推すると、当時の社会では奴隷に対する考え方が変わり始め、それを見越して進化論が発表されたのではないか。
 更にダーウィンの進化論はヒトラーユダヤ人虐殺理論に利用された。ナチス政権下のドイツでは、遺伝病子孫予防法という法律が制定され、障害者や精神病患者など「低価値者」と呼ばれた人々に対して強制不妊手術が実施された。さらに1939年からはユダヤ人を低価値者とし大量に安楽死させる計画が始まった。このナチスの政策は優生学という理論に基づいて行われた。優生学とは、劣った遺伝形質を持つ人々の子孫が増えることを阻止し、優れた遺伝形質を持つ人々の子孫を増やしていこうとする差別主義的な考え方。この考え方が学問として本格的に展開されるようになったのは実はダーウィンの進化論以降なのだ。進化論以降、遺伝子の機能や生物の遺伝法則などが次第に明らかにされ、人間の能力や社会の構造もダーウィン自然淘汰や適者生存の考え方で説明できるのではないかという「社会的ダーウィニズム」に発展した。優生学は社会的ダーウィニズムの一つの典型なのだ。
 番組を見ていたらシェークスピアの「ベニスの商人」思い出した。小説のなかでは、お金を貸して利益をあげるユダヤ人を蔑む社会的価値観と、ベニスという都市国家、商人社会では総てに法律が優先するという価値観のぶつかり合いがテーマとなっている。ヨーロッパ社会におけるユダヤ人の差別は日本人にはなかなか理解ができない問題だが、小説ではベニスの法律で裁けないシャイロックに対して詭弁としか思えない論法でシャイロックを裁いた。「肉は切ってもいいが血を流してはいけない」という裁きは大岡越前の発想には無い。更に、その裁きのなかでシャイロックキリスト教に改宗させるという罰を与える結末は当時の社会の価値観を反映している。
 進化論は欧米人の考え方をいい意味でも悪い意味でも大きく変化させたが、日本人にはどのような影響を与えたのかという話が続いた。明治時代に大森貝塚の発見で有名なモースが、東大で進化論をベースに動物と人間が一体の世界観を話した。その時の学生が動物と人間の一体論は当たり前のこととして受け止めたので、モースはその反応に驚いたそうだ。当時の日本人の考え方を表していて非常に興味深い。明治維新まで日本には欧米でいう「自然」という概念がなく、自然と人間は一体であったので、モースが進化論を話しても学生が驚かなかったのだ。西欧の自然観はキリスト教の教義のように管理する対象物として自然が存在するが、日本の自然観は自然と人間は一体となった存在なのだ。このことをモースはまだ気付いていなかった。
 ここでもう一度、放射能汚染のテレビ番組を想いだしてみると、明治時代以前の日本人と今の日本人は人種が異なるのではないかと感じた。自然と一体になっている価値観を持った日本人であれば、テレビ討論では汚染地域に遺棄された家畜やペットに対して思いが出るはずである。更に田んぼに水を入れた百姓のような話が出るはずである。現在の日本人は優生学でいう「低価値者」にランクされてしまうのではないか。ダーウィンの進化論より進んでいた価値構造を持っていた日本人はどこに行ってしまったのか。人間だけでなく動物や植物にとっても放射能汚染はあるのに、食の安全という人間のことだけを考える価値構造の社会に未来はあるのか。食の安全は家畜やベットも同じではないのか。
 3.11以降、人間中心主義、金銭中心主義、便利性優先主義の価値観をどのように転換しようかとしているときに、他の生きものへの眼差しが議論されてない。放射能に汚染されてしまった日本で生きてゆくためには、もう一度、明治時代の日本人が持っていた価値観を取り戻すことではないだろうか。地域の自然、生きものと一体となって生きていくことが「地域の暮らしを守り、命を大切にする」ことなのだ。