北朝鮮とベルリン

 昨日は北朝鮮の金総書記が死亡したニュース一色であった。その中で、今後の北朝鮮はどうなるのだろうか。国内が混乱して国外逃亡をする難民が日本にも押し寄せるのではないか。新しい体制を確立させるために軍事的パーフォーマンスが行われるのではないか。様々な不安が言われています。

 私はこのような状況を見て、1989年11月16日を思い出しました。当時、私は西ドイツに駐在でおり、デュッセルドルフという街に住んでいた。今でもよく覚えているが、その日、隣に住んでいるドイツ人の老夫婦が私の家の玄関に来て、早くテレビを見ろという。私はドイツのテレビは面白くないから見ないといったら、何でも良いからテレビのスイッチを入れてみろという。仕方なくスイッチを入れたら、デレビではベルリンの壁の上で若者が騒いでいたのだ。何が起こっているのか私は殆ど理解できず、テレビ番組なのかと思った。そして次に思ったことは、壁の登った瞬間に撃ち殺される筈なのに、誰も殺されていないことに気が付いた。暫くしてからその場所はブランデンブルグ門のすぐ脇の壁だということが分かった。ベルリンの壁は様々な形態があり、東西の薄い壁と壁の間が20mくらいの空間敷地があって地雷が埋められている場所、チャーリーポイントといって東西の交通が可能だが銃を持った軍隊が検問する場所、市内を流れる川が国境となり川の中には鉄条網が設けられている場所、私がテレビで見たブランデンブルグ門の脇の壁は厚さが10mくらいあり、強化コンクリートで固められているのでタンクがぶつかってもびくともしない場所なのだ。そのような壁の上で踊ることなどは全く考えられない。教えてくれたドイツ人夫妻に何が起きたのか聞いても全く分からない。

 私はこのように歴史上の大事件は日常の生活に突然起きるものなのだという事を知った。もちろん当時の新聞等ではチェコハンガリー等からオーストリアに難民が流れている報道はあった。しかし東西ベルリンの壁が崩壊するなどという人は皆無であった。私たち日本人は海に囲まれた国に住んでいるので、陸地続きの国に住んでいる人間とは感覚が多少違う。しかし日本海を漂流していた北朝鮮難民は現実にいるし、北朝鮮の難民が漁船に乗って日本海を渡ってくることは用意に想像できる。私がよく出張する佐渡島などは、北朝鮮に拉致された場所でもあるのだから、難民は間違いなく来る。

 そこで私たち日本人が考えなければならないことは、北朝鮮難民は国は違うが私たちと同じ普通の市民なのだ。その市民が困って舟に乗って来た時に、私たちはどのような対応をすればいいのだろうか。浜から追い返すのであろうか。私はそうは思わない。今回の東日本大震災の日本人の冷静な対応が世界から評価されているが、私は東アジアの同じ稲作民族として暖かく迎えてあげたい。しかし精神論だけでは大事には対処できない。難民に必要なものは当面の衣食住である。何時来るか分からない北朝鮮難民問題への対処だけを議論したら多分まとまらないであろう。しかし、考えてみて欲しい。今の日本にも多くの難民がいることを。今後、震災復興が進んでいくなかで、仮設住宅の資材や衣類などは難民対策としてストックしておくことは可能ではないだろうか。もちろん米の備蓄もしなければならない。現在、途上国援助に回しているMA米についても緊急の活用方法を検討しておかなければならないだろう。

 大地震は今後3年以内に来るという想定がされているが、北朝鮮問題も多分3年以内の想定ではないかと私は思う。ベルリンの壁が崩壊する以前から東ヨーロッパの国々のテレビアンテナは西側に向けてあり、市民は衛星放送を見ていたのだ。そのような中で国家がいくら情報統制をしても情報は国民に流れ、それが壁崩壊の本当の原因だった。今、北朝鮮でも同じような動きがあり、同じ民族の韓国のテレビ番組見て、その生活様式から感じている国民の不満は抑えられない。食料不足はそれに拍車をかけている。

 私はベルリンの壁崩壊から3日後にベルリンに行き、壁の向こう側から歩いて来る東ベルリンの人たちの明るい笑顔を今でも覚えている。壁のこちら側ではNATO軍が暖かいスープとパンを渡して、歴史的出来事を共に喜んでいた。その後、家族でベルリンを訪れた時に当時10歳であった娘がこんなことを話していた。「パパ、私はとても嬉しい。まさか自分が生きている間に、プランデンブルグ門の下を通ることが出来るなんて想像もできなかった。」