ベルリンの壁と日本のリンゴ

 前回、ベルリンの壁が崩壊した当時のことを書いたが、地球の裏側の出来事の重大さが日本にはあまり伝わっていなかったことを一つ。私はベルリンの壁が崩壊した時にヨーロッパで日本産の農産物を売っていた。最近では話題になっているが1987年当時、私は日本産農産物の輸出の可能性についての調査をするために西ドイツに赴任した。調査といっても机上でするのではなく、実際に自分で販売先を探して条件交渉をして、日本から輸出しなければならない。赴任直後に農産物の取引先を調べようと思って農産物のマーケティングの本を探したが、そんなものはヨーロッパに無かった。仕方なく飛び込み方式で取引先を開拓していった。取引先に商談にゆくと、そこで次の取引先を紹介してもらう方式で取引先が西ドイツからイギリス、フランスへと広がった。日本の産地からも熱い期待がかかり、福島や長野の梨を中心に様々な農産物取引が始まっていた。そのような中で、こちらから注文をしていないが山形県からも知事命令でリンゴが2コンテナ送られてきた。しかしなかなかそれが売れなくて困っていた時にベルリンの壁が崩壊した。
 
 私は以前のブログで書いたように、歴史に残る大事件が目の前で起こり、NATO軍を始めヨーロッパの各国は祝福をしているので、その祝福に日本も参加すべきではないかと強く思った。日本に何ができるか考えていた時に閃いたのが日本のリンゴであった。NATO軍が祝福にスープとパンをあげるのであれば、日本は赤いリンゴをあげて祝福しよう。ベルリンの人たちは必ず喜ぶに違いない。私はそう思い立ったら直ぐに取引先に相談をして、配る段取りとテレビ会社の手配を進めていた。テレビで目立つように日本のハッピも準備をしていた。

 しかし、しかしである。日本はなんと遠い国であったのか。ほぼ全体の企画がまとまってきたので日本にFAXで連絡したところ、イベントの中止命令が届いたのである。理由は、現地の事情が分からず、そのようなことをする必要性があるかどうか判断できない。だから中止だという論理であった。私はもちろん激怒したが、現地の所長からも中止の指示が出されてしまった。
私はヨーロッパを商談で駆け回るなかで、日本の芸能や文化等、様々なディスカッションを重ねていた。その中で、日本に対する欧州人の理解がかなり不足していることを感じ、日本の農産物を売ることによって少しでも日本という国を理解してもらおうと思っていた。今回の企画は将に欧州人に日本を理解してもらう絶好の機会ではないかと思った。ベルリンの壁崩壊とい歴史に残る出来事に対して、極東の日本という国から祝福のメッセージが届けば、欧州人の心に日本という国が語り継がれると確信していた。

 最近では組織と個人の問題が、内部告発という形で問題となっているが、私の場合は組織の判断と個人の判断とどちらを優先させるかという問題であった。組織の状況判断が間違っている場合は個人の判断を優先させ、後日、組織から責任を追及されたら個人として責任をとれば良いというのが、今の私の考え方だ。もちろん私は日本に帰国してからは、組織が判断しない場合に個人の考えを優先して仕事をしてきた。もちろん組織のなかでは出世しなかった。しかし私の判断した企画で多くの日本の農家や消費者を助けてきたという自負があるので後悔はしていない。