幸福と自然

 先日、面白い記事があった。GNHで有名になったブータン王国の総幸福量調査のときに「貴方は幸せですか」という質問項目にブータン人が戸惑ったという話。以前の私のブログで紹介したがGDPで計測できない項目の代表例として「心理的幸福」があるという話だと思う。心理的幸福とは正・負の感情(正の感情が 1.寛容、2.満足、3.慈愛、負の感情が 1.怒り、2.不満、3.嫉妬)を心に抱いた頻度を地域別に聞き、国民の感情を示す地図を作る。どの地域のどんな立場の人が怒っているか、慈愛に満ちているのか、一目でわかるようだ。この説明ブログを書いているときにはあまり意識しなかったが、この「幸せ」の意識は私が常々言っている「自然」の意識と同じではないかと直感した。

 本当の幸せとは、自分が幸せの時に自分の幸せの状況が客観的に見えないので意識できないのではないか。本当の幸せとは物理的な幸せではなく、心理的なものである。物理的な幸せであれば、満足のゆくものを保有した時に幸せを感じることができる。更に、他人と比較して物理的に裕福であれば幸せと感ずることができる。しかし、この物理的幸せは持続しない。カーライルの幸せの法則で説明しているが、「分子に個人の物質的満足/分母に個人の物質的欲望=幸せ」という方程式である。人間は何かの欲求が満たされた時に分子が増大するので満足感を得るが、実はその満足感は本当の幸せではない。分子が拡大しても分母の人間の欲望は更に拡大するので、答えとしての幸せは増大しないという数式である。心理的な本当の幸せとは、自分がその中に居るときには幸せと一体となっているので数式では表現できない。心理的幸福の正の感情が寛容、満足、慈愛という項目で調査される時にどんな質問項目なのだろうか興味深い。更に、その感情を抱いた頻度で表すというのが、更に興味深い。

 この「幸せ」という文字を「自然」という文字に置き換えて見ると日本人が本来持っていた自然観と現在の自然観が異なることに気が付く。現在使われている自然という概念は明治維新以降、西欧から輸入された”Nature”という概念を訳すために使われた漢字だそうだ。江戸時代までの日本人には現在の「自然」という概念がなく、心理的幸せと同じように自然と一体となっていたので言葉で表現できなかった。つまり当時の日本人は常に自然と一体であり、自然の内側にいた。明治以降、西欧的自然の概念が導入され、現在の日本人はその概念が昔からの日本人の概念であるが如く誤解している人が多い。現在は、自然の外側にいて自然を客観的に眺め、自然は人間が管理するものだと思っている人は、3.11の震災復興では1000年に一度の津波を防ぐ防潮堤の建設を推進するだろう。鴨長明方丈記や鳥羽僧正の鳥獣戯画などは昔の日本人の自然観という観点からは見ないであろう。

 実は、この問題はデカルト方法序説で著された物心2元論に端を発し、その後の西欧自然科学の発達とともに世界の常識になってしまった。自然界の動きは観察と実験によって総て数式で表され、それが近代科学文明を生み産業革命を引き起こし、これまでの世界の価値観を形成してきた。総てが数字によって表される文明は、総てが金銭によって価値観が決められ、金が金を生むという幻想までも引き起こしてしまった。

 私たちが実施している生きもの調査も自然科学の世界ではモニタリングと呼ばれ、数量と種数のデータを取ることに主眼が置かれている向きがある。しかし田んぼに素足で入る生きもの調査は、将に自然の中に自分が存在し、その自然は江戸時代までの自然なのだ。そこには数字は存在せず五感で感じる「幸せ」が存在する。数字で表現できないものは科学ではないという人がいるが、生きもの調査は科学ではない。だから私たちは五感を表現するために「生きもの語り」を展開している。
ブータンの総幸福量調査を真似ている自治体が出てきているが、調査項目を検討する以前に田んぼの生きもの調査を体験してみることをお勧めする。その実感をもとに幸福調査項目を検討するといいだろう。3.11以降、日本人が探している価値観は案外近くにある。