農村生活の絆

農村部と都市部における集落の結びつきの違いについて考えてみたい。
農村部、特に稲作を中心とする集落は、室町時代の惣村に始まり江戸時代の新田開発によって形成されてきた歴史がある。新田開発は従来の湖沼を中心にして行われ、埋め立てによる開発後も用水の管理が集落単位に行われた。水田への導水は取水口から順番に行われ、自分の水田だけ特別な扱いは許されなかった。集落で決めたことを遵守しなければ集落全体の稲作に影響を与え、集落全体の生死にかかわる場合もある。これが集落の結びつきの根底にある。集落の掟を破った者は「村八分」にされる。更に「結い」という共同の農作業があり、過酷な労働から田唄や祭りが生まれ、地域の芸能へと発展した。先般、広島県北広島町の「壬生(みぶ)の花田植(はなたうえ)」がUNESCOの無形文化遺産に登録されたのは記憶に新しい。

集落では田植えの後に行われるご苦労様会の「さなぶり」や収穫後に行われる「あき祭り」が、集落全体で行われ共同体としての結びつきを一層強めている。伊勢神宮でも稲作神事として、2月には今年の豊作を祈る祈年祭(きねんさい)、4月には稲が立派にそだつようにお祈りする神田下種祭(しんでんげしゅさい)、5月と8月には天候の順調と五穀の豊穣を祈る風日祈祭(かざひのみさい)、9月には神嘗祭に使う御料米の稲穂を抜く抜穂祭(ぬいぼさい)、10月にはその年の新穀の初穂を神々にささげる神嘗祭(かんなめさい)が行われる。11月には天皇陛下の勅旨がこられ、宮中で新穀を神々にお供えになり、自らも召し上がるのに関連して行われる新嘗祭(にいなめさい)が行われる。かつては、その年の新米を神様が召し上がる神嘗祭が済み、その後で天皇が召し上がる新嘗祭が済むまでは、一般的に新米は食べない習わしだった。

伊勢参りは江戸時代から盛んになったと言われているが、何故、お参りに行くのか調べてみた。伊勢神宮には皇大神(こうたいじんぐう)と豊受大神宮(とようけだいじんぐう)の二つがある。皇大神宮は内宮といわれ、御祭神は天皇の先祖と言われている天照大神で、豊受大神宮は外宮といわれ、御祭神は日本人の主食の米を中心とする衣食住ひいては産業を司る神で豊受大神である。伊勢神宮の稲作神事は、豊受大神という主食の米を司る神と、稲作神事を司る天皇の先祖神である天照大神の二つ御祭神が祭られているからなのだ。伊勢参りは昔は「おかげ参り」と呼ばれていたが、それは豊作の感謝と日常の感謝なのだ。当時の幕府は全国を旅行することを禁じたが、伊勢参りだけは許可し、伊勢講を作り代表だけお参りしたりして、最高潮の頃には450万人お参りしたそうだ。

昨今、天皇家女性宮家問題が紙上を賑わしているが、天皇は稲作を中心とした日本の集落の結びつきと、その結びつきを相互確認する稲作神事を司る家系なのだ。戦後教育のなかで「天皇は日本国及び日本国民統合の象徴である」と教えられてきたが、言葉は分かるが意味がよく分からなかった。それは天皇が「公としての国事行為」と「私としての稲作神事」の二つを行っているということを教えてくれなかったからだ。国事行為だけの視点であれば立憲君主制や元首の議論となり、藤原不比等以降、政治の実権は殆ど天皇にない時代が続き、明治維新以降も実態は同じであったので、象徴として国事行為をするということは理解できた。しかし何故、日本国民統合の象徴であるのか理解ができず誰も教えてくれなかった。日本国民統合の象徴とは、大伴家持万葉集巻18にあるように稲作神事を行う万世一系の家系が天皇であるということを意味していたのだ。

葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を 天(あま)くだり
しらしめしける 天皇(すめろき)の
神の命(みこと)の 御代(みよ)かさね……
敷きませる 四方(よも)の国には
山川を 広み淳(あつ)みと
奉る 御調宝(みつきたから)は
数え得ず 尽くしも兼ねつ……

 毎年の豊作を祈願してくれる唯一の家系が天皇であり、だからY染色体遺伝特性を考慮すると男系天皇でなければならなかったのだ。減反政策が出るまで総ての日本国民は稲の豊作を望み、その望みを祈願してくれる唯一の祭司が天皇であるという理解に立てば、「日本国民統合の象徴」であることは当然なのだ。更に日本の定住集落の結びつきが稲作にあることを考えれば、「日本国民の絆の象徴」と言い換えても良い。震災復興のために天皇陛下皇后陛下が被災地を回られたときに、テレビに映った被災者の顔に日本国民としての絆が見て取れたのは私だけではないであろう。