都市生活の絆

 都市部の結びつきを考える場合に集落という言葉は使わず町という言葉を使う。日本の「町」は読んで字の如く田んぼの隣にあり、西洋の「街」は城壁に囲まれている。つまり日本の町は外敵を想定しておらず、始めは物々交換の市が立ち、それが定期化することにより町へと発展した。その結果、日本の町は農村と異なり稲の豊作という共通の望みが無く、田植えの結いのように共通の労働もなく、共通の神事が無いので共通の集団規範が当初無かった。どちらかというと西洋社会のように個別規範が優先する社会的特質を持っていた。平安時代の京都のように夜盗盗賊が跋扈するのが当たり前で、江戸時代以降、奉行所が置かれてから町に規範が定着した。つまり様々な地域からの余所者が集まるところで「絆」が成立するような生活様式ではなかったのである。

 町の絆を東京の下町と山の手に分けて考えてみたい。
 江戸時代は武家屋敷があった高台が山の手であり、町人が多く住んでいた低地が下町であった。下町は江戸城築城以降、住民が集まった地域で現在の墨田区台東区中央区千代田区江東区、港区文京区の一部あたりだと言われている。落語の長屋住まいのはっつあん熊さんの話ではないが、下町の人間は商売人が殆どで貧乏人が多く、「宵い越しの金は持たねえ」などと粋がっているが実のところ金が無い。そのために助け合いの協力精神が発達し、味噌や醤油の貸し借りは当たり前、窮乏生活のなかでの互助精神で結ばれている。村と同じく無尽講や頼母子講が発達し、それが村の集落の「絆」と同じような関係性を構築してきたのが東京の下町なのだ。話す言葉も標準語ではなく、江戸言葉つまり方言である。下町は住民の殆どが顔見知りであり、トラブルが起きても住民同士で話し会いをして解決し、解決できない場合は地域の顔役が出てきて解決する。つまり横糸でつながっている社会構造なのだ。

 一方、東京の山の手は武家屋敷から始まり江戸詰め武士や奉公人の住まいとして、明治以降は勤め人の住宅街として発展した。現在のJR山手線の下町以外の地区で、ターミナル駅からは私鉄が伸長している。山の手といっても品川区や大田区の下請け工場が多い地区は地方出身者が多く、下町と同様の絆を形成している。山の手に住んでいる勤め人は昼間の殆どは会社で過ごしているので、住居のある地域との関係性が薄い。住まいは寝に帰るだけで、味噌や醤油の貸し借りもする必要がない。子どもも私立の学校に行けば、地元の公立校に通わないので、地域の子どもたちと遊ぶことがない。親も子も隣の人が誰であるか知る必要性がないのである。このようなところに「絆」という言葉が生まれる素地がない。話す言葉も標準語に統一されており、何処の出身であるか分からない。山の手は下町と異なり、住民の出入りがあるので総てが顔見知りというわけにはいかず、トラブルが起きると役所という公共サービスによって解決を図る。つまり横糸の殆ど無い、縦糸だけでつながっている社会構造なのだ。

 このような形態で下町と山の手が発展してきたが、現在はその双方に異変が起きようとしている。下町では地価高騰が原因で過疎化がどんどん進み横糸の社会構造が崩れ、売却した土地は開発され高層住宅が建設されている。その高層住宅では当初、縦糸の社会構造で問題を生じていなかったが、3.11以降、災害対策が真剣に検討され始め、高層住宅1棟ごとの自治会活動が活発化してきている。山の手区域でも相続税問題が原因でお屋敷町が姿を変え始め、更に地域の生ゴミ問題等の住民活動が活発化してきており、横糸の社会構造へと変化を始めている。

 このように都市生活においても「絆」という横糸の社会構造への変革が始まっているが、この変革に付いていけないのか男性である。農村部の男性は横糸の社会構造のなかで生活しているので「絆」は形成されているが、都市部の男性は会社という組織の縦糸の社会中心に生活をしているので「絆」という枠組みに参入できない。参入したとしても横糸社会で活動をしている妻や子どもたちという家族を通じてしか参入できていない。現在、テレビや新聞等で地域社会の復権だとか新しい価値構造の創造などという話をしている男性は、どこまで横糸社会の構造に参画しているのだろうか。立派な話になればなるほど「絆」からは離れていくように感じるのは私だけだろうか。よく聞く話だが、会社の人間で偉い人ほど定年退職後、うつ病で家に閉じこもりがちだという。地域社会に組織の肩書きは無用の長物なのだ。会社に勤めていると家の周りの地域活動に参加する時間が無いという言い訳をする男性がいるが、それは自分に参加する意思が無いことを内外に明らかにしているだけだ。そのような男性は地域の横糸の社会構造のなかで生きてゆかなければならない家族から早晩、見放されるであろう。