絆と公共サービス

 絆について集団生活から都市部、農村部と話をしてきたが、今回は公共サービスと絆について考えてみたい。
 都市部の絆でも書いたが、下町を除く都市の生活は農村と異なり、公共サービス抜きでは考えられなかった。都市では各家庭と役所が縦糸でつながり、地域のトラブルを解決してきた。隣の住人とのトラブルも当事者同士で解決するのではなく、役所にクレームをつけて役所が解決してくれるのを待つ。私たちはそのために高い税金を払っている。このような構図で毎日生活しているのだから、絆がなくても生活できたのだ。

 この問題は市役所の問題だけでなく、国と国民との関係においても同じことが言える。国は国民から税金を徴収し、その税金をどのように配分するかというのがこれまでの社会システムであった。現在、大阪市で起きている地方分権の問題は、将にこの社会システムを壊す話である。この議論は単なる社会システムの変更として進められてしまうと大変なことになる。3.11以降、私たちは「絆」という言葉を再認識し、新しい社会を構築しなければならないと感じているが、現実の復興対策の中身と放射能対策の進捗状況を見ると、そこには「絆」が殆ど見当たらない。絆とは「地域の暮らしと命を大切にする」という基本理念があって初めて出来るものである。

 原発再稼動の問題にしても福島の問題点が明らかになっていないにも係わらず、ストレステストだけで強行しようとしている。再稼動しないと電力不足になるかもしれないが、原発周辺住民の命のほうが大切なことは誰でも分かる。国とか電力会社は縦糸の社会構造のなかで動いている。つまり縦糸の社会には「地域の暮らしと命を大切にする」「絆」という横糸の社会構造が欠落している。そのような組織構造のなかでの判断に自分と自分の家族の命の問題は入っていない。横糸の社会構造を理解してもらうには、国と電力会社の責任者の家族が原発周辺に移転してもらうしか方法はない。

 現在の消費税問題も社会システムの構造としては同じ問題である。私たちの税金は国、県、市町村という縦糸の社会構造のなかで使われているが、課題は使途を明らかにすることではなく、公共サービスに頼らない横糸の社会構造をどのようにして作るかではないか。年金も医療も保険も公共事業も公共サービスの殆どが国の一律の施策のなかで決定されているが、国から地域の暮らしと命は見えるのか。私たちはこれまで公共サービスの充実を求めてきたが、実は公共サービスを求めることは私たちの「絆」を弱めてきたのではないか。公共サービスとは縦糸の社会システムであって、私たち暮らしと命を守るのは横糸の社会システムである。国に一度徴収された税金は、縦糸の仕組みで私たちの手元に届くまでに、半分以上が管理費で消えてしまう。それは今回の赤十字の寄付金構造のなかで明らかになっている。

 このように現在の様々な社会システムをもう一度見直す時期にきている。選挙による間接民主主義の仕組みも、もう一度、地域の民主主義の原点といわれている自治会レベルから再構築する必要がある。地域の暮らしと命を守る最小単位は地域の自治会なのではないか。都市部に住んでいる人が「絆」を求めるのであれば、地域の自治会に参加して活動を展開することではないだろうか。その時に一番の難問は、別の地域で働き、寝に帰るだけの旦那である。