絆と自治会

 自治会活動は民主主義の原点と言われているが、絆の視点から考えてみたい。私は20年前に日野市に引越し、その時から自治会活動を続けている。日野市への引越しの経過は、私が仕事の関係で日野市の区画整理事業を担当していた時だった。換地計画が終了し、その後の区画整理跡地の100世帯から150世帯のまちづくりをどうしようかという時に担当となった。地権者の多くは3階立てのPC建築を希望していたが、私がオランダの街並みを真似て連棟式の2階立て上下使い、庭付き、駐車場付き、入居対策として会社の社宅を誘致する提案をした。更に町の憲章の案などを提案したので、地権者からそこまで言うのであればここに住んで欲しいという希望が出され、運良く抽選にも当たり、バブルの最盛期に引越しをすることになった。

その時に、地権者から要望されたことは、引越しの翌日から地域の自治会の事務局長を引き受けて欲しいということだった。当時の私は大手町の事務所に勤めており、通勤時間を考えると、自治会活動をするのは無理だと判断していた。しかし地権者の一人が自治会長でもあり、引き受けざるを得なかったので交換条件を提示した。それは自治会の活動日や活動時間は総て私の都合に合わせて欲しいということだった。私の予想では、これで断れると思っていたが、予想に反して条件を飲まれてしまった。

これが私の自治会活動の始まりだった。私は下町育ちなので町内会の活動は良く知っていたが結婚前に住んでいた地域であり、その後は山の手に住んでいたので自治会活動とは無縁であった。西ドイツに住んでいたときにはもちろん自治会活動は無かった。私の自治会活動の武器は当時、ワープロを使って回覧板や企画書を即座に作れることだけだった。

私の地域は以前からの自治会が500世帯あり、そこに新しい住人である150世帯が新規参入する形をとった。新規参入を含めた新たな自治会の構成としては、旧農家を中心とした地主層が5%、昭和30年以降の戸建て住宅層が60%、賃貸住宅入居者層が35%という、全く異なった人たちがいる混住地域であった。これらの人たちをまとめてゆくのは大変だと思っていたが、当時の自治会活動は回覧板の配布、夏の盆踊り大会、春のバス旅行程度であり、夏祭りは地域の神社の氏子に協力する程度の活動だったので何とかやれると思っていた。

しかし私が事務局長就任早々に私の地域を含む周辺地域で町名地番変更問題が起こった。この地域はつい最近まで農地であり、その後の開発によって町名と地番が入り組み、郵便配達泣かせの地域であった。当時の集会で私は町名変更に対しては人一倍反対の主張をした。理由としては、私の住んでいた下町が町名地番変更で地域のプライドが無くなってしまう経験していたからだ。下町の黒門町といえば伝七親分がいたところで、下町情緒を残していた。しかし上野○丁目と住居表示が変更したあとは、どうも人に住所の説明をするのが嫌になったのだ。たかが住所名、されど住所名である。落語家の黒門町の親分と一緒に銭湯に入っていた自分としては、今回の町名地番変更問題が他人ごととは思えなかった。私は集会の中で反対論を展開し、再度、住民アンケートの実施を提案し、見事に町名地番問題は棚上げになった。その後、宅配便の誤配等があったが、住居地図のデジタル化が進み、問題は解決した。私はそこまで読んでいたわけではなかった。

このような事件があったので、おざなりの自治会活動をしたら笑われると思い、自治会活動の再点検と様々な企画提案をした。もちろん、私の交換条件の通り、自治会活動は私のスケジュールにあわせて展開してくれたことは言うまでもない。

サラリーマンが良く言う言い訳の一つとして、職場が離れているので自治会活動ができないというが、本人のやる気の問題ではないかと思う。寝に帰るだけの住まいでは地域との絆は築けない。地域の活動は自治会活動だけでなく様々な活動があるが、一番、地域に密着した活動は自治会活動ではないかと思う。民主主義の原点が自治会活動だという言葉を実感するためには、自分の住んでいる地域の自治会活動に参加することをお勧めする。