科学的安全神話とデカルト

 科学的安全神話はどのようにしてできあがったのか。その発端はフランスの哲学者であり数学者でもあったデカルトの物心2元論にあると言われている。物心2元論とは、それまでのアリストテレスキリスト教の中世哲学の考え方から転換し、自然を精神から切り離し、自然現象を質量や距離などの数値からとらえて、数学的な法則を明らかにしようとする物理学の理論的背景となった。その後、ニュートン万有引力の法則を始め基本的な物理法則が次々発見され、「天体から地上の物質まで、自然界の全ての運動が単純な物理法則に支配されている」「世界の全てが物理法則に従って動いている」という世界観が生まれた。

 物理学の基礎となる幾何学は、誰も疑うことのできない簡単な公理から、厳密な論理を積み上げる学問であり、その時の精神の働きは全く論理的なもので論理的精神とも呼ばれている。それは厳密な推論を基調とする、分析的、客観的な学問に向く思考形態なのだ。この「科学的な精神」によって人間は自然の神秘を解明することができた。その結果、すべての事柄が数式で表現される科学万能主義に人類は陥ってしまい、科学万能主義の極地が原発安全神話だった。

 デカルトは「我思う故にわれあり」という有名な命題を残しているが、同時代のパスカルは瞑想録のなかでデカルトの行き過ぎた科学的精神に注意を促している。「人間は考える葦である」という有名な文章は誰もしっているが、意味は「人間はか弱い葦にすぎないが、考えるという行為ができる。それが人間の尊厳のすべてであり、このことによってのみ、人間は宇宙(自然)に優ることができる」というように科学は万能ではないということを見抜いていた。科学的な精神によって人間は自然の神秘を解明することができたが、自然の複雑な事象を論証に頼らず、直感的・全体的に把握する、柔軟性に富む認識能力、すなわち「直感的な精神」も人間は合わせて持っており、数字や数式で表せない精神の大切さを説いている。数字で表せない精神とは、芸術を感じる心、魂の世界を感じる心、神の存在を認識する心、死後の世界をとらえることのできる心、これらの心は人間に本来備わっているもので、人間だけが持つ独特の精神だと言っている。

 3.11まで私たちは科学文明に絶対的信頼を置き、宇宙という神の世界も科学で解明できると思っていた。総ての価値観は数字で裏付けられ、数字で表現できない価値観は「非科学的」であると思っていた。数字で表現できない愛、命、芸術なども脳への電磁パルスでいずれ表現できるようになると思っていた。今回、問題提議している放射能廃棄物の処理方法も、科学の発達でいずれ解決できると思っていた。しかし3.11で、死は何の前触れもなく突然襲ってくるという事実を、鮮烈に突きつけられた。豊かさや幸せに満足し、溺れて、その背後に密かに隠れていた「死」について考えることを疎かにしてきた。幸福感を感じながらも、心からの安心を得られなかった理由は、死と生が隣合わせに存在しているという厳然たる事実を忘れていたからに他ならない。

 しかし今でも防潮堤の高さを30mにすれば津波は防げると思っている。そして原発を再稼働させて、処理のあてのない放射性廃棄物を再生産し、問題を10万年後に先送りしている。偽装停電なんてことを考えるよりも、もっと大切なことを忘れている現代の日本人を見て、パスカルは「日本人は弱い葦であるが、考えない葦である」と言って笑うことは間違いない。