9.11と9.15と3.11と生きもの調査

これまで生きもの調査を10年以上やってきて、生きもの調査が持っているパワーの根源は一体何かということを考え続けてきた。最近になってやっとそれが少しずつ分かってきた。それは9.11と9.15と3.11という、今世紀に入って人類最大の事件の課題を解決する糸口として、生きもの調査のパワーが存在することに気がついたからだ。
9.11とは同時多発テロ事件、9.15とはリーマンショック事件、3.11は東日本大震災福島原発事件である。3つの事件は人類に対して次の課題解決を迫っている。同時多発テロ事件は人類にとっての「宗教と戦争」という課題を突きつけ、リーマンショック事件は人類にとっての「経済と道徳」という課題を突きつけ、福島原発事件は人類にとっての「科学と幸福」という課題を突きつけた。それぞれの課題は未だに解決されていないばかりか、更に、混迷を深めている状況にある。

宗教と戦争の課題は、テロの原因と考えられたイラク戦争が集結しても、テロリストのオサマビンラディンが銃殺されても解決せず、イランとイスラエルの紛争やアラブの春からシリアの内紛に至るまで、何処にも解決の糸口を見つけられないでいる。
経済と道徳の課題は、リーマンショックからアメリカの経済は多少持ち直したが未だに失業率は高く、EUギリシャから始まった経済破綻を収拾できず、更にガットのドーハラウンドの多国間交渉は暗礁に乗り上げ、その代わりにTPPという環太平洋経済連携協定という参加国間での自由貿易を促進させるルールづくりが強行されようとしている。
科学と幸福の問題は、東日本大震災という天災とは別に福島原発が想定外の事故ではなく人為的災害事件であるという認識を新たにし、更に、これまでの原発安全神話が崩れただけでなく、放射性廃棄物の処理技術が未確立のなかで原子力政策が進められてきたことが明らかになった。しかし電力不足という想定のもとに放射性廃棄物を再生産する大飯原発が再稼働され、長期的原子力エネルギー政策のあり方についても国民的議論が収束しない状況が続いている。

このように人類が直面している3つの課題に対して、未だに誰も解決策が見いだせない原因は何かを考えてゆくと、私達が普段から考えている価値観そのものに原因があるのではないかという結論に至った。これらの3つの課題の背景にあるものの正体は何か。その正体はどうも「欧米的自然観」なのではないだろうかという思いに至った。ここでいう「欧米的」という言葉は地域や国民を指すのではなく、近代科学文明を生み出してきた歴史と価値観を共有する国民を指す。その国民は地球上の先進国と呼ばれる国で生活をしており日本ももちろん入る。しかし日本は明治維新までは欧米的自然観は持たず、第2次世界大戦以降の戦後教育によって欧米的自然観を持つようになった。

ここでいう近代科学文明の背景となっている「欧米的自然観」とは何か。詳細の検討は別タイトルに譲るが、一言で表現すると「人間」と「自然」の位置関係であり、欧米的自然観では「自然の外側」に人間が位置している。たったこれだけのことが、現在の人類が抱えている課題の背景にあることが分かった。
明治維新以前の日本には「自然」という概念がなく、殆どの日本人は「自然」と「人間」を一体不可分のものと考えていた。しかし明治維新以降、欧米の近代科学文明を導入するなかで欧米的自然観も導入され、先進国の仲間入りをしてきたともいえる。特に第2次世界大戦以降は「欧米的自然観」が戦後教育で徹底され、高度経済成長とともに日本人のなかに浸透していった。その結果、現在の日本人は江戸時代の日本人とは全く異なる人間であるという人もいる。

その現代日本人が持っている「人間の外側にある自然」と「人間」の位置関係を、江戸時代の日本人や発展度上国の人間が持っている「自然の内側にいる人間」の位置関係に変えるパワーを生きもの調査が持っている可能性が高いということに気がついたのだ。