自然という概念

8月のブログで人類が直面している3つの課題について書いた。そこでは3つの課題の背景にあるものの正体は「欧米的自然観」ではないかという結論になった。その欧米的自然観”nature”という概念を明治維新の時に「自然」という漢字を当てた理由がこれまで分からなかった。「自然」という漢字は現在では「しぜん」と読むが、当時は「じねん」と読んでいた。この「じねん」という概念と”nature”という概念の関係性について悩んでいたが、その答えは傍らにある本に書いてあった。それは「歎異抄」という誰でも読んでいる本だった。
私はこれまで歎異抄という本を3回程度読んだと思っていたが、実は何も理解していなかった。歎異抄親鸞が書いたものと思っていたくらいだから、字面だけで読んだ気分になっていたようだ。

唯円の書いた歎異抄の第16条にその文章はあった。
信心さだまりなば、往生は弥陀にはからはれまひらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。わろからんにつけてもいよいよ願力をあをぎまひらせば、自然のことはりにて柔和・忍辱のこころもいでくべし。すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひだしまひらすべし。しかれば、念仏もまふされさふらう。これ「自然」なり。わがはからはざるを、「自然」とまふすなり。これすなはち、「他力」にてまします。

信心が定まったなら、極楽浄土へ行くことは、阿弥陀さまのおはからいですることですので、自分のはからいがあってはなりません。自分が悪いことをするにつけても、一層こういう悪い自分を救ってくださる阿弥陀さまの本願の力を仰ぎますならば、自然の道理で優しく静かにものごとに耐え忍ぶ心も出てくるものであります。すべて、あらゆることにつけて、極楽浄土に往生するためには、利口ぶる心を持たずに、ただ阿弥陀さまの御恩が深いことを常にほれぼれと思い出す必要があります。そうすれば自然に念仏が申されてくるのであります。これが「自然」ということであります。自分のはからいでないものを「自然」といいます。これはすなわち「他力」ということでもあります。梅原猛

私の勝手な想像だが、欧米から初めて”nature”という概念を説明された明治時代の日本人は、「自分のはからいでないもの」「人間もその一部である森羅万象、天地万物総てを包含するもの」と理解したのではないだろうか。そして、その理解を表現する言葉として「じねん」を採用し、漢字をそのまま当てて読み方を「しぜん」にしたと思われる。しかし当時の欧米の”nature”という概念は「じねん」の概念とは異なり、デカルトの「物心二元論」に端を発する人間と自然界を分ける考え方であった。そう考えると「しぜん」という読み方を考えた日本人は欧米との概念の違いを意識して、同じ漢字を使うが読み方を「しぜん」にしたのかもしれない。日本人が持っていた「じねん」の概念とは別に「しぜん」という読み方の言葉を使うことによって、西欧の”nature”という概念に対するアレルギーを排除したともいえる。そうでないと当時の日本人が持っていた「じねん」の概念は欧米の”nature”の概念と対立し、自然科学に基づく西欧文明の導入に支障をきたす恐れがあったのかもしれない。

それでは現在の日本人は「自然」という漢字から「じねん」という概念を呼び起こせるのだろうか。歎異抄では「じねん」とは「他力」だと明言しているが、「他力」とは人間の意思で自然を管理する西欧の「自力」と全く異なる。「じねん」の発想では、人間が自然を保護するということは考えられない。人間が主語になった途端に「自力」になってしまうからである。人間はあくまでも主体の存在ではなく、阿弥陀さまのおはからいの世界の一部でしかないのだ。

3.11以降、自然災害の対処方法は「防災」から「減災」へ転換し、原子力についてもその安全神話が崩壊し、人間主体の科学文明の限界が見え始めている。今後どのように対処するのか世界中が模索しているなかで、日本人は「自然」を「じねん」と呼ぶ概念を持っている。国家鎮護や一部の貴族のための仏教は末法思想が世の中に蔓延していた時代に転換し、民衆は「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽浄土に行けるようになった。私達日本人は西欧が16世紀以来欠落してしまった物心一元論の世界、他力本願の思想を未だに持っている。私たちは「自然」という漢字をもう一度「じねん」と呼び直し、「他力」という考え方を自分のDNAから呼び覚ますことを世界から求められているのだ。