遺伝子組み換えと進化論

IDACAの講義の続き。
 一連の講義のなかで、私が取り組んだ遺伝子組み換えをしていない飼料の輸入システムについて話した。私がGMOに取り組んだのは1997年、まだアメリカでのGMOコーンはコーン作付け面積全体の2〜3%前後であった。その当時、アメリカの生産者の話しは以前のブログ「放射能安全基準と遺伝子組み換え」に書いてあるように、環境と農業を両立させる画期的な方法だと絶賛していた。世界のGMO農産物の作付け状況を話すなかで、インドは2005年以降、GMO作付け面積が拡大し、現在では世界第4位のGMO作付け国となっている。研修生のなかにインド人もおり、GMOについての議論になった。その中で明らかになったことは、GMO作物は外貨を獲得する商品の作付けが殆どで、それぞれの国民の食生活との関連性が薄いことが判明した。ベトナムでも同様であった。インド人からはモンサントによる種と資材の独占についての弊害論が出たが、GMOの安全性についてはあまり議論にならなかった。日本ではGMOの安全性が食を中心としてなされているが、問題の本質はそこではないという説明をした。

 問題の本質を語るにはダーウンの進化論から説明しなければならなかった。ダーウィンの進化論については以前のブログ「進化論と放射能汚染」で一部を書いたが、「適者生存」という言葉が独り歩きをして日本では「弱肉強食」と同じような意味で理解されている。その後、人間の能力や社会の構造もダーウィン自然淘汰や適者生存の考え方で説明できるのではないかという「社会的ダーウィニズム」に発展した。しかしダーウィンの「適者生存」とは「地球環境の激変に対応できるように進化した種が生き残った」という意味なのだ。地球の歴史上で最強の種である恐竜は氷河時代に生き残れなかったことがそれを証明している。つまり地球という環境が大きく変化するなかで、様々な種がその変化に対応してきたのが地球の種の歴史なのだ。

 しかしGMOダーウィンの進化論の前提となってきた「地球の環境」ではなく、人が作った「GMOの環境」に「特定の種」がその変化に対応するという、地球の歴史とは真逆の歴史なのだ。その「特定の種」に「人間という種」は入っていない。将に西欧的自然観の中には人間は常に自然の外側にいて、その管理をするので、まさか人間がその「特定の種」に入るかどうかという発想がない。ダーウィンの進化論に戻ってもう一度考えてみると、地球ではないGMOの環境に適応できる種はモンサントが作っている。GMOの環境に適合できる人間は現在の「種」ではなく、モンサントが作ったGMO適合人間だけなのではないだろうか。自分が自然の外側にいて自然を管理していると思っていたが、その自然をGMOで作り変えてしまったので、GMO自然に適合できる「種」のなかに現在の人間は含まれていない。モンサントがそこまで設計していたら空恐ろしい。GMO自然が人間という種にどのような影響を与えるのか分からないが、GMO自然の適合種に現在の人間が入っていないことだけは事実である。放射能に汚染された自然に適合できる「種」はいないことと、問題の本質は同じである。

 既に1億5千万haを超える作付けがなされている世界は、日本全体の面積の40倍である。その自然がGMO自然になってしまっているという事実は放射能汚染と同じレベルで考えてみれば誰にでも分かる。放射能と遺伝子組み換えは人間が開けてしまった「パンドラの箱」なのである。
イント人は私の書いた遺伝子組み換えの本質を説明したパワポの資料を、日本語のままでも良いといって持ち帰った。