シェーナウの想いと自治会

先日、シェーナウの想いという映画を見た。ドイツ南西部のシュバルトバルト(黒い森)にあるシェーナウという2500人の小さな町の話。1986年に起きたチェルノブイリ原発事故から子供たちの命を守る運動から始まり、誰もが実現不可能と思っていた再生可能エネルギーによる電力供給に成功し、今ではドイツ国内に11万人もの顧客を抱る「市民による電力会社(EWS)」を立ち上げた。

私はこの話しを知らなかった。チェルノブイリ原発事故の翌年の1987年から3年間、当時の西ドイツに駐在をしており、当時の東欧諸国から脱脂粉乳を日本に輸出する仕事に携わっていた。その時に脱脂粉乳からかなりの放射能が検出され、輸出用からは外していた。しかし東西合併後のドイツで、このような市民運動が行われていたことを知らなかったのを恥じている。更に、福島事故直後にドイツ政府が脱原発に大きく舵をきった時に私は驚いた。いくらドイツで環境政策が徹底されているといっても、脱原発まで踏み込むとは思えなかった。

 西ドイツの時代からドイツでは節電対策は徹底していた。家庭では日本のように赤々と部屋全体の照明ではなくスポット照明が主体、台所はオール電化であるがあまり料理をしないので電気を使わない、エレベーターホールのような公共スペースでは自動的に照明が消える、屋外エスカレーターは人を感知しないと動かない、土日はお店が休みで店内の商品はスポット照明これが本当のウィンドウショッピング、24時間コンビニも勿論無いし自動販売機も殆ど見かけない。このような生活スタイルは今も変わっていないが、電力供給に不安を感じさせる脱原発に転換するとは理論的なドイツ人らしくないなと思った。このような疑問は今回の映画を見て払拭された。そして更に、ドイツ人らしいと思った。

 私の印象ではドイツではあまり市民運動が活発だと思っていない。どちらかと言うと個人主義が徹底し、一度、法律で決まるとそれを徹底的に遵守する国民性なのだ。それ故に他のヨーロッパの国々からは一風変わった人種だと思われている。2回も世界大戦を引き起こしたのは、批判精神に欠けたその国民性にあるのではないかとまで言われていた。緑の党は私が赴任したころから過激な環境運動を展開していたが、あまり一般市民に支持されていなかった。今回の映画は私のドイツ人観を大きく変えさせた。これまでのドイツ人は国が定めた仕組みに従順であり、市民運動によってその仕組を変えるようなパワーは持たない国民だと思っていた。しかし今回の映画ではルターやカルヴィンのようなパワーを感じた。

 従来の市民運動は「反対運動」であった。今回の市民運動は市民の手で社会の仕組みは変えられるということを証明したのだ。現在の日本でも原発反対運動やTPP反対運動のデモが展開されている。しかし反対運動だけでは社会の仕組みは変わらない。改革を志す人を選挙で選んで社会の仕組みを変えようとしても時間がかかりすぎ、志した人も熱意が無くなる。現在の民主主義のルールはグローバル化を前提としていない。グローバル化された企業の利害と市民の利害が対立している状況のなかで、現在の民主主義のルールでは解決できず、反対運動は市民の自己満足と利害関係団体組織のアリバイ証明だけに終わってしまっている。

 日本の原発反対運動も市民が参画できるものは、国会前のデモと次期選挙だけである。次期選挙でどの政党が主導権を取ろうとも、グローバル企業の利害関係には対抗できない。何故ならば市民はグローバル企業と何らかの関係でつながっているからである。シェーナウの想いの中でも、電力会社や官僚の圧力に屈しかけたが、そこで妥協せずに支援の活動の輪を広げることによって対抗した。そのパワーは何処から生まれたのか。それは自分たちが住んでいる町であり、自分たちの子どもや孫の未来を思うところからパワーは生まれている。そして人任せにしないで徹底的に自分たちの手作りの仕組みを作る。日本でも0%15%30%の議論や2039年以降の議論ばかりしていないで、自分たちの地域の電力を再生エネルギーで供給するためには何から始めるかという議論が必要なのではないか。テレビや国会で先生方や評論家の話しだけを聞いていても何も解決しない。シェーナウでは市民の情報発信から始まって、自分たちの電力会社を作って再生エネルギーの供給を実現し、更に国の政策まで変えてしまった。

 もう一度、私達は自分の住んでいる地域に目を向けて、市民活動を展開しなければならないのではないか。TPPに参加しても、自分たちの地域のお店と連携して地域の農業や国産農産物を守ることは可能だし、そのような仕組みを地域で作り上げれば怖いものはない。その地域の活動の基本は自治会であり、自分たちが自治会に参加して、様々な活動を展開して新しい仕組みを地域で作れば良い。国会まで行かなくても、自分たちの地域でいくらでも活動はできる。民主主義の基本は自治会にあることをシェーナウの想いは思い出させてくれた。