道の駅と稼ぎ

私はこれまで「農業」という漢字を「農」と「業」に分けて、現在の日本の農業のあり方を論じてきた。現在の農業の議論では「業」という「お金」の価値観だけで語られており、「農」という「命」の価値観で語られることが少ない。その結果、TPPに参加すると日本の農業が壊滅的打撃を受けるというお金の価値観の論理に席捲されている。もし日本の農業が「命の価値観の論理」で語られるのであれば、TPP参加しても日本の人と生きものの命を育む農地という国土を荒廃させるようなことは無い。

以前から興味のあった内山節の著書を調べてゆくうちに、私の思想とかなり似通っていることが分かった。私の「農」と「業」の論理を彼は「仕事」と「稼ぎ」という言葉で表している。「仕事」とは何か‥‥畑を作ったり、樹の枝打ちをしたり、リンゴを育てたり、あぜ道をなおしたり、そういう自然を守るはたらきを「仕事」といい、それ以外のものはみんな「稼ぎ」だという。彼の考え方と私の考え方はほぼ同じだが、自然を守る「仕事」と「稼ぎ」のバランスをどのようにとるかということが問題になる。このバランスの分岐点が重要であり、その分岐点を自覚するために生きもの調査をしている。だから分岐点は集落の置かれている環境毎に異なり、近代農法の実施期間毎に異なり、個々の農業経営の状況毎に異なる。更に、農家の仕事に対する地域の金銭的支援や心情的支援によっても異なる。直接支払いの農村環境対策費は将に「仕事」に対する国家的支援であるが、日本ではまだまだ認知されていない。

認知されない一つの理由としては省庁縦割り政策の弊害があげられる。自然や命に対する地域政策を展開するためには、農水省環境省国土交通省が一体となって取り組まない限り難しい。EUではイギリスが20年前から省庁再編をして実行している。ここでは日本の行政の愚痴を行っても始まらないので、市民の手による取り組みを提案したい。提案に入る前に、市民活動のパワーで再認識したことを紹介したい。

それは「シェーナウの想い」という映画である。
この部分は以前のブログで紹介したので省略する。

日本の原発反対運動も市民が参画できるものは、国会前のデモと次期選挙だけ。次期選挙でどの政党が主導権を取ろうとも、グローバル企業の利害関係には対抗できない。何故ならば市民はグローバル企業と何らかの関係でつながっているから。シェーナウの想いの中でも、電力会社や官僚の圧力に屈しかけたが、そこで妥協せずに支援の活動の輪を広げることによって対抗した。そのパワーは何処から生まれたのか。自分たちが住んでいる町であり、自分たちの子どもや孫の未来を思うところからパワーは生まれている。そして人任せにしないで徹底的に自分たちの手作りの仕組みを作る。日本でも0%15%30%の議論や2039年以降の議論ばかりしていないで、自分たちの地域の電力を再生可能エネルギーで供給するためには何から始めるかという議論が必要。テレビや国会で先生方や評論家の話しだけを聞いていても何も解決しない。シェーナウでは市民の情報発信から始まって、自分たちの電力会社を作って再生エネルギーの供給を実現し、更に国の政策まで変えた。

もう一度、私達は自分の住んでいる地域に目を向けて、市民活動を展開しなければならない。その時に全国で1000ヶ所以上になった道の駅に着目したい。TPPに参加しても、自分たちの地域の農業が自然や命を守る「仕事」を展開していれば、地域の道の駅がその活動を支援する拠点となる。更に道の駅には地域の市民だけでなく、道の駅に寄ってくれる遠隔地の市民もいる。一つの道の駅で1000人の市民活動を展開すれば、全国では100万人の活動となる。シェーナウの活動が1000ヶ所で展開されることになる。

道の駅の活動自身も「仕事」と「稼ぎ」のバランスを考慮しなければならない。地域の市民による自然や命を守る活動「仕事」を店内で情報発信し、その活動を支援してくれる市民の輪を広げなければならない。それが道の駅自身の仕事であり、道の駅が本来的に担わなければならない機能。
具体的には生きもの調査活動は将に地域の自然と命を守る「仕事」であり、その活動の拠点を道の駅に置く。そこにはコウノトリやトキがいなくても良い。地域の四季の変化と生きものの命のつながりが分かるような情報発信をする。更に、地域の生きもの調査に参加するために道の駅を訪れる市民がいれば最高。道の駅は地域の市民と遠くの市民の「心」をつなぐ仕事ができる。農産物直売という「稼ぎ」の切り口ではなく、自分たちの地域の自然と命を守る「仕事」をする市民が集うところが道の駅なのだ。