鈴木大拙とカフカ

 何週間か前に朝のテレビで鈴木大拙の番組を放送していた。日曜の朝なのでテレビといっても話しを聞いているだけなのだが、こんな話しだった。
人間が年をとることは非常に良いことだ。何故ならば、人間は年をとることによって様々なことが分かってくるからだ。若い時には分からなかったことが齢を重ねることによって、理解できるようになる。老人は若者にその知恵を伝達しなければならない。

 考えてみればそのとおりの話で、私も還暦を過ぎたあたりから少しずつ物事が分かるようになってきた。ブログにもいくつか書いているが、最近ではカフカの小説「変身」が少し理解できるようになった。西ドイツ駐在の頃に仕事でプラハに行き、市内にあるカフカの墓を見た。私はそれまでユダヤ人墓地を見たことがなかったし、カフカユダヤ人であることも知らなかった。実は、カフカという名前は知っていたが作品は知らず、帰国後にあの暗い墓地に埋葬されている人間はどんな作品を書くのだろうという興味から「変身」を読んだ。読んだ瞬間に、何だこの作品は、何を言おうとしているのか、ユダヤ人墓地のイメージと重なり、暗いだけのイメージを持っていた。当時はインターネットも無い時代なので書評も手に入らずに、そのままになっていた。

 その後、10年以上経ってから生きもの調査を始め、ブログの「自然という概念」のなかでも書いているが、自分が自然の外側にいるのか内側にいるのか、常に問うようになってきた。この答えを求めるなかで「他力本願」「輪廻転生」という仏教の考え方や「物心二元論」という自然科学に対する西欧哲学の考え方を学ぶようになった。これらの言葉はカフカと同様に名前は知って知っているが内容については分からなかった。輪廻転生については三島由紀夫豊饒の海を読んだ時もよく分からなかった。ネパールのダライラマの話から自分の前世が分かる人も世の中には存在するのに私は全く分からない。

 しかしカフカの変身の輪廻転生と三島由紀夫豊饒の海の主人公の輪廻転生は、どうも違うようだということが分かってきた。それは仏教の輪廻転生では現世の行為の結果が転生先に影響しないが、キリスト教ユダヤ教の輪廻転生では現世の行為の結果が転生先に影響する。私は変身を読んだ時に、虫に変身した主人公を妹や父親は最初、あまりいじめない理由が分からなかった。それがユダヤ教の輪廻転生に基づくものであることは、私が知識と年を重ねて初めて分かった。年を重ねてから初めて分かることが沢山あるのだ。変身の主人公はその後、父親の暴力による怪我が原因で死んでしまうのだが。インターネットの書評では私のようなことは書いてないが、プラハの墓地の意味が20年経って初めて分かるということは、無駄に年は重ねていないとう証左になるのかもしれない。

 鈴木大拙という名前を私はヨーロッパの本屋で初めて知った。どこの街の本屋か忘れてしまったが、書棚で日本人の本を初めて見つけたら、それが鈴木大拙の本だったのだ。後で知ったことだが、鈴木大拙は仏教関係の本を英語で書いており、それが書棚に並んでいた原因。残念ながら当時の書棚には日本人が著者の本はそれ以外見つからなかった。鈴木大拙カフカと同じく、帰国後に初めて読んだ作者である。その作者が鎌倉の自宅から朝の太陽が昇るところを眺めて「本願とは太陽だ」と言ったそうだ。この「本願」という言葉も私は知らなかった。一般的には本願は「阿弥陀さまの御恩」であり、極楽浄土に往生するためには利口ぶらずに、阿弥陀さまの恩が深いことを思い出し、ひたすらに念仏すれば良いといわれている。実はこれが「自然ジネン」ということなのだ。

 生きもの調査を始めてから「シゼン」と「ジネン」の違いを意識し、当初は「シゼン」を観察することが生きもの調査だと思っていたが、どうも違うことに気がついた。その後、生きもの調査は「ジネン」の意識を呼び覚ます活動であり、「念仏」と同じようなものではないのかと思うようになった。だから田んぼに素足で入り、脚の裏で「胎蔵界曼荼羅」を感じ、生きものと目線を合わせることで「輪廻転生」を感じ、稲の成長を見ながら「稲魂」を感じることが大切なのだ。机上の哲学の空論ではなく「物心一元論」の世界が田んぼにあることを体験しなければならない。こんなことを書いていると、頭がおかしくなったのではないかと言われるが、人類の普遍的な問である「人間は何処から来て何処へ行くのか」の答えがここにあるのではないか。

 人間の霊魂は西方浄土から来て、死んで再び霊魂はまた西方浄土へ帰る。帰る時に阿弥陀さまが迎えに来てくれて、多くの人や多くの生きものと一緒に帰る。そしてまた帰った様々な霊魂は別の命となって西方浄土から未来の現世に戻る。これが意識できた人がダライラマであり、豊饒の海の主人公なのだ。死ぬことは別に恐ろしいことではなく、自分の霊魂が元いたところ(彼岸)に帰るだけだと考えれば思い悩むことはない。私は最近、このように考えており、西方浄土に帰る時が来るまでは、できるだけやり残すことが無いように毎日を生きようと思っている。若い時には思いもつかなかったような考え方に今日至ったのは、年をとったおかげだ。20年前は死ぬことにもっと悶々としていた。年を重ねることは良いことだ。後は生きもの調査をしながら若者に伝えるだけだ。あれ。鈴木大拙と同じことを言っている。