12月16日の選挙

今回の選挙で多くのひとがぼやいていること。
どこの政党に投票しても変わらない。投票したいと思う立候補者がいない。
私も同様に思っている人間だが、どうしてぼやくのか考えてみた。どうやら国と国民の関係がはっきりしないからではないかという結論になった。国は国民の健康と命と財産を守るのが当然であるが、現在の争点である様々な課題は単純な方程式では解けない。

デフレ脱却といっているがインフレになれば困る人が沢山いる。インフレから所得向上まで時間がかかるが、それしか方法は無いという。しかしこの20年間、国は様々な経済政策を行なってきたが、残ったのは国の借金だけ。難しい数字のことは分からないが、テレビの討論を聞いていると虚しさが増すのは私だけだろうか。

財産の問題より優先する命の問題では、原発廃止の期間が10年20年30年という訳の分からない争いをしている。福島原発原発が国民の命を奪うということが明らかになったのに、電気料金が上がるから原発を再稼働させるという。何か狂ってはいませんか。この世に、命より大切なものがあるのでしょうか。原発を再稼働させれば、間違いなく行くあてのない廃棄物がでてくることは誰もが知っているのに、何故だろう。原発はトイレのないアパートだそうだが、自分の家庭に汚物が入ってくるのが分かっていたら、そんなアパートに入居する人はいない。再稼働と言っている人は、そんなアパートを次々建てていることに気が付かないのだろうか。そんな人は、そのアパートにはいってもらうしか無い。

TPPも20年前と同じ議論を繰り返している。20年前の米の輸入自由化反対とTPP参加反対と何が違うのだろう。この国の人は進歩という言葉を知らないのだろうか。20年前に米の関税化に反対をしていたが、現在は関税化しているでは無いか。自由化で安くて美味しいお米が輸入されても、国民がそれを選択しなければ問題は無い。国民が日本のお米を選択することの意味が分からないから問題が生ずるのだ。馬鹿な国民は安くて美味しいお米を選択することが、日本という国土を荒廃させるということに気づいていない。反対のシュプレヒコールをするお金と暇があるならば、国民に真実を教えることのほうが大切なのではないか。議員に踏み絵をさせたところで何の意味もないことは20年前に証明済みである。

このように今回の選挙の争点は、国民自身が問題の本質を理解していないために起きている問題で、ぼやくのは自業自得である。しかしだからといってこれらの問題をどのように対処したら良いのか。選挙で解決できると思うことは辞めよう。何故なら立候補者も分かっていないのだから。問題の本質は政治が問題を解決してくれるという幻想を有し続けているところにある。日本人は戦後の経済成長を経て、自分たちで問題を解決する手法を忘れ、総てを国の政策なり行政サービスに解決を求めてきた。自分の住んでいる地域で解決できる問題までも総て行政サービスに委ねてきた結果が、官僚による高コスト社会になってしまったのだ。

経済問題は地域で相互扶助の仕組みを作りながら生きることを何故考えないのだろう。地域の仕組みを支援してくれるのが政治家ではないだろうか。政治家には地域の仕組みは作れない。
原発問題は自ら電気を使わない生活を実行し(私の家では電気代が半分になった)「シェーナウの思い」というドイツの市民活動のように、自分たちの地域で取り組めることが沢山ある。
TPP問題は自分たちの食生活を見直し、農地が私達を含めた様々な命を育んでいることを知れば、国産農産物を食べることが自分たちの国土を守ることと同じだということに気づくはずだ。命を守ることは総ての経済行為に優先することは、自衛隊と同じ問題である。

このように地域活動を忘れた国民は、選挙でぼやくのは当たり前で、今後もこの点が改善されなければ同じことが続いて、我が国は滅びるのでしょう。政治家も地域活動を地域への利益誘導と勘違いせず、地域住民が自らの頭で考えて行動することを支援できるかどうかという視点で活動すれば、議員定数も減るし、議員歳費もいらない。昔から自治会活動や集落の組活動は民主主義の原点と言われていたが、誰もやらなくなってしまった。団塊の世代が定年を迎えている今こそ、家庭内粗大ごみにならないように地域の活動に積極的に参加し、自らの地域で解決できることは解決してゆかないと、この国の次の展望は見えてこない。

こんな気持で16日の選挙にゆけば、偉そうな演説をぶっている人より、自分たちのこれからの活動に協力してくれそうな人が見えてくるかもしれない。