経済動物から実験動物への転換

 先日、福島県浪江町畜産農家吉沢さんの話しを聞きにいった。吉沢さんは東京電力福島第1原発から半径20キロの警戒区域に残され野生化した家畜をめぐり、家畜を生かすことを認め保護するよう求める要望書を農林水産省などに提出した地元の畜産農家の一人。国は福島県に対し、農家の同意を得た上で殺処分するよう指示。しかし吉沢さんは国の殺処分命令に同意せず、現在も牛の世話をしている。私は彼の話しを聞きながら、家畜の5つの自由という視点から今回の問題を考えてみた。家畜の5つの自由とは以下の項目から構成されている。
①飢えと渇きからの自由
②肉体的苦痛と不快感からの自由
③傷害や疾病からの自由
④おそれと不安からの自由
⑤通常的な行動要求が実現できる自由
 この5つの自由というのは家畜が工業的生産をされることに対する動物行動学からの視点。つまり経済動物としての家畜を対象とした自由を意味している。福島の警戒区域内の被曝家畜は国から殺処分を命令され、5つの自由を奪われ棄畜となってしまった。国の殺処分は、被曝家畜は経済動物としての価値がなくなったが故の処置。つまり被曝家畜は飼育し続けても経済的価値を生まないから殺処分をして、その分は補償するという考え方。ペットは殺処分の命令が出ていない。しかし放置されたペットは既に野生化している。

 私は何を思ったかというと、被曝家畜は被曝した瞬間から経済動物では無くなり、被曝した瞬間から実は実験動物に転換したのではないかという事。経済動物としての価値が無くなったから殺処分をするというのは、非常に短絡的な思考で隠蔽行為ではないのか。第五福竜丸ビキニ環礁被曝事件を思い出した。当たり前のことだが、これまで放射能の被曝データは非常に少なく、その結果、安全基準も設定できず被曝対策も確立されていない。そうであるならば現在、生きている被曝家畜は被曝検証データを取る実験動物として非常に貴重な存在ではないだろうか。被曝家畜は経済動物としては価値が無くなったかもしれないが、被曝の実験動物としては存在価値があり、それを殺処分にすることは許されない。臭いものには蓋をするのではなく、実験動物として一生を送ってもらうことが被曝家畜の5フリーダムなのだ。
吉沢さんたちは実験動物としての被曝家畜を飼育管理する貴重な管理人であり、その管理料は国が支払うのは当然。殺処分するのは可哀想という情念に流されるのではなく、吉沢さんの牛は被曝を転機に生存する価値観が変わったのだ。今後は実験動物として一生をおくることが被曝牛の5フリーダムを尊重することになるはずだ。

 実はこの問題を考えている時に、これは被曝家畜だけの問題ではなく、警戒区域全体の問題であり、区域内の田んぼや畑では栽培をすることが実験であり、区域内の生態系の変化を観察する実験圃場なのだ。実験を希望する農家は田んぼに水を入れて米を作り、野菜を作り、果樹を作ればいい。勿論、収穫物は販売に供するものではないが、収穫物の経年変化のデータ収拾することが今後の対策に役立つ。その延長で考えると魚介類も同様であり、漁を禁止して補償金をだすのではなく漁をして魚を調べることが将来に役立つのである。

 原発事故は二度と起こして欲しくない問題であるが、起こしてしまった事に蓋をするのではなく将来に役立つデータを収拾することが、将来の事故対策に役立つ。原発事故で命を落とした人間や家畜に対して、それが最大の供養になるのではないか。吉沢さんたちの被曝牛はこのままの状態で支援しても、実験動物としての5フリーダムにはならない。被曝家畜たちは実験データを取られることによって成仏できると思う。