国民の自立

集団的自衛権の議論が進められている。国民の命に関わる重大な問題にも関わらず、内閣という非常に狭いなかで議論が進められている。国民が送り出した議会での議論ではなく、議員が所属する政党の与党という一部で議論され、更にその与党の一部である内閣という限定された中で議論されている。
議論のなかでは「国民の命を守るために集団的自衛権が必要だ」と言われているが、私達の命は内閣のメンバーに託しているのではない。内閣のメンバーや与党や国会議員に託しているのでも無い。私達の国民の命と健康と財産を守ることは国民の権利であり、それを「主権在民」といっている。これでは「主権在内閣」である。問題の本質は、中国や北朝鮮の脅威から国民を守る集団的自衛権ケーススタディには無い。憲法という最高法規によって国民の命と健康と財産が守られているにも関わらず、その憲法という本質の土俵で議論せずに、解釈という姑息な手段で変更しようとしている。今はケーススタディの議論ではない。本当に危険が迫っており、対処方法が必要ならば、その状況を国民に説明をし、憲法改正の議論をするのが真っ当な民主主義ではないだろうか。そうでなければ今回の改正の責任は誰が負うのか。国民投票で現在の国民が憲法改正の決断をして、その結果、戦争に巻き込まれてもその責任は投票した国民が負う。それが民主主義の基本だったはずだ。
このまま憲法解釈論で集団的自衛権が認められ、それに伴う法律改正がなされ、海外で自衛隊が戦い、日本にミサイルが飛んできて、テロリストに原発が襲われても自分たちが判断したのであれば納得ができる。それが「自己責任」ではないだろうか。日本は何時から自己責任をとれない社会になってしまったのか。様々な調査で殆どの国民が今回の件で不安を感じている。何故、不安を感じるのか。それは様々な情報提供に基づき、様々な議論が展開され、その行動のなかで国民一人ひとりが決断できる状況になっていないことが原因。自分で決断をして将来に責任を持てば、もしその決断が間違っていたとしても納得はできる。他人様に自分の重大な決断を任せた覚えはない。
私達は選挙という社会の仕組みのなかで国会議員を選んだが、これは国民に代わって議論をしてもらう代議制という仕組みであり、その仕組は憲法という枠内で行われている。それは憲法が国民の命と健康と財産を守る最高法規に位置づけられているからだ。その最高法規に抵触する事項について、一部の国会議員という代議制に則っただけの人間が決めることは出来ない。
そのような違憲の状況に対して、憲法を守る機関である最高裁判所が異議を唱えなければならない。更に、最高裁判所が内閣と国会に対して国民投票を義務付けるという仕組みが三権分立ではないのか。