協同組合と下町

私は全農に入って初めて協同組合という概念を知った。私は農学系ではないので農業経済学や協同組合論などという単位は無かった。
入った当初、宮城県の農協の婦人部の会議に出席した時のことを覚えている。私は東京出身なので何かの拍子に「東京者には協同組合の助け合い精神は分からないべ」と言われてカチンときた。私は協同組合精神は分からないが、助け合いとは何かを知っている。何故ならば、私の生まれ育ったところは東京でも下町で、助け合いを普通にしているところだったからだ。味噌や醤油の貸し借りはもちろんのこと、小学校の友達の住んでいる範囲は殆どが家業をしている。所謂、畳屋、額縁屋、桶屋、とんかつ屋、中華料理屋、お菓子屋、印刷屋、大工、旅館、ホテル、洗濯屋、本屋、メダル屋、自転車屋、はんこ屋、数え上げたらきりが無い。サラリーマン家庭は殆ど無く、クラスの入れ替わりは年間1人あるかないかである。だから殆どの家庭は知っているし、向こうの親は私が誰の子供であるか知っている。近所で悪いことをすれば親爺に殴られるのは当然であり、銭湯に行けば必ず知っている人に会い、背中を流すのは当たり前の世界。銭湯には近所に住んでいる落語家がきて、何か分からないが唸っていた。
近所の有名人といえばシクラメンの香りを作曲した小椋佳がおり、私は彼の弟2人といつも遊んでいた。家は中華料理屋であり、お姉さんは三味線をひいており、私はそのお姉さんから「お富さん」という歌を教わり「粋な黒塀、見越しの松よ」と意味もわからず歌っていた。当然、親からは叱られ、暫く出入り禁止になった。そんなところで育ったので助け合いは日常的であり、その話を会議で開き直ってしたところ婦人部の農家全員が納得し、それ以降、親しくお付き合いをさせて頂いた。
東京の下町は山の手と違って人の出入りが殆ど無く、家の鍵はかけないのが普通であった。だからムラと感覚は同じであり、不審者は直ぐに分かってしまう。ムラと同様に町内会の共同作業はあるし、普段、子供の面倒をみれる親がいないので町内会の行事が多い。海水浴、芋掘り、ザリガニ釣り、お絵かき大会、書道大会、ハエ取り大会、餅つき大会、それこそ数え上げたらきりが無い。大人のなかで手の空いた人間が、それぞれの行事の面倒を順番みるのである。私の住んでいたところは東京のムラであり、助け合いの協同組合精神は生まれながらに持っていた。この部分が身体で分からないと協同組合の本質がなかなか理解できない。協同組合もいろいろあるが地縁をベースにした農業協同組合は、ムラの協同作業「結」に端を発している。結とは将にムラの暮らしそのものであり、東京の山の手には殆ど残っていない。このことを理解して農協論を語らないと間違った方向に議論が展開してしまう。