1992年と最後の審判

農業と環境のドッキングの仕事をして10年以上になるが、その間、どうしても分からないことがあった。それは1992年のEUのCAP改革、特に環境直接支払い政策への転換と同年にリオデジャネイロでスタートした第1回地球環境会議の背景であった。この2つは世界の農業政策と環境政策を大きく転換させ、私はこの2つの間には何らかの仕掛け人がいると思っていた。しかし、いくら調べてもそのような人間はおらず、自然発生的に大転換がスタートしたのであるが、その原因がどうしても分からなかった。
1992年のCAP改革はガットウルグァイラウンド交渉の決着点であり、当時のEC財政からすれば転換せざるを得ない状況であった。そこで国際的価格競争からの転換政策として直接支払いをスタートさせたのであるが、環境負荷を軽減させる農業に対して環境直接支払いも同時にスタートした。EC農業が目指してきた、生産性を向上して国際競争力を高める農業政策から、地域の環境政策と農業政策をドッキングさせ、その行為に対して国民の税金を投入するという、これまでのEC共通農業政策には無かったものであった。
1992年の地球環境会議はこれまでの環境政策を地球規模で行う合意を取り付けた会議であり、背景としては地球温暖化問題や絶滅危惧種の増加問題という状況があった。そこで気候変動枠組み条約と生物多様性条約という2つの国際条約が決議された。これらは国連が主催しているが基本的にはEUが世界をリードしている。
この2つの背景となるヨーロッパ市民の意識転換は何時どのようになされたのか、私は1980年代の様々な出来事を分析した。そのなかで意識転換を促した最大の出来事は1986年のチェルノブイリ原発事故ではないかというのが私の結論であった。更に1986年にはスイスのバーゼルで化学薬品の工場が爆発してライン川を汚染し北海まで汚染されたことも環境問題への大きな変化を促した。その後、EU統合に向けての1987年の欧州統一議定書がCAP改革の始まりとなり、狂牛病問題等が農業政策の方向性を大きく変えたと思っていた。私の昨年のブログでもEU市民の意識というタイトルで説明している。そこではヨーロッパ人と日本人の「自然」に対する概念が全く異なることも原因の一つとして分析している。人間は自然を管理するために神に似せて造られ、自然の管理人としての責任が創造主から問われた結果、環境への意識転換がなされたという論理である。しかしこの理論は当時、西ドイツに住んでいた私としては、何故か自分の理論に納得していなかった。
昨年の11月に明治神宮で「いのちの感謝収穫祭」というタイトルで新嘗祭を行った。その際に様々な人に会い、様々な文書を調べていくうちに宗教と哲学の問題に突き当たった。何度も訪れているバチカンの教会には何故「哲学の間」があり、アリストテレスプラトンが描かれているのか、ソクラテスの死とキリストの死はヨーロッパ人にどのように捉えられているのか、キリスト教神学とは一体何か、学校の教科書で通り一遍のことしか勉強していない私にとっては全く分からない世界であった。しかし様々な文献を調べていくうちに「最後の審判」という課題に直面した。ミケランジェロの描いた最後の審判はシスティナ礼拝堂で何度も見ているが、立派な体格をしたキリストが人間の行き先を天国と地獄に分けているフレスコ画である。そこにはグレーゾーンは無く、天国か地獄であり、人間であれば誰も地獄行きの裁きを受けたいとは思わない。ここでやっと私の疑問が解けた。
自然の管理人として神に創造された人間が、自然科学の発達により神が創造した自然を破壊してしまった。その破壊も産業革命当時の森林破壊ではなく、チェルノブイリのように自然を修復不可能にする状況にまでしてしまった。自然の管理を神から任された人間としては、創造主に対する管理責任を果たしておらず、神に対する裏切り行為であることは間違いない。その結果、現在の人間は最後の審判で地獄に落とされることはシスティナ礼拝堂の壁画のとおりである。私は殆どがキリスト教徒であるヨーロッパ人が、1980年代に起きた様々な環境破壊が自然の創造主に対する冒涜であり、その結果、自分たちは最後の審判で地獄に落とされることを自覚したのだと思う。キリスト教徒てあればカソリックプロテスタントイギリス国教会最後の審判に対する畏怖は同じである。地獄に落とされたくないキリスト教徒はこれまでの自然科学優先志向から転換をし、キリスト教の理性として地球環境を破壊しない哲学を持ったというのが私の推論である。
こう考えれば1992年の謎は解け、それ以降の地球環境問題でヨーロッパが世界をリードしている理由、ドイツが福島原発以降に原発政策の大転換をした理由も理解できる。日本人は自然に対する考え方もヨーロッパ人とは異なり、人間は自然と一体となり、そこには自然に対する管理責任という発想は無い。更に、日本の八百万の神は自然神であり、人格神として最後の審判はしない。それではどうしたら良いのかということについては別項目で論じてみたい。