近代の超克

太平洋戦争が開戦された翌年の1942年に近代の超克という13名の評論家によるシンポジウムが行われた。明治時代以降の日本文化に多大な影響を与えてきた西洋文化の総括と超克を標榜していた。近代の超克とは政治においては民主主義の超克であり、経済においては資本主義の超克であり、思想においては自由主義の超克である。明治維新政府が目指した近代国家とは、国民の代表機関である議会制度や統一的に組織された行政制度、合理的法体系に基づく司法制度、国民的基盤に立つ常備軍制度等が整備され,中央集権的統治機構をもつ国家であった。その結果、民主主義の超克として大日本帝国憲法が制定され代議制民主主義が実現し、資本主義の超克として西洋技術の導入による産業革命が起こり、欧州の世界支配の超克として大東亜共栄圏が実現した。
戦後の日本も民主主義の超克として日本国憲法が制定され、普通選挙による代議制民主主義が行われ、資本主義の超克として経済成長が実現し、太平洋戦争の超克として憲法9条が実現した。

しかしこの2つの超克において欠けているものがあった。それは国の統治機構を整備するだけでは近代国家へ衣替えすることはできなかったことを意味する。
近代国民国家国民意識の超克として、明治維新政府が意図した国家神道キリスト教の役割を果たせなかった。それは敗戦後に天皇人間宣言神道指令が出されても日本では暴動が起きなかったことで証明される。戦後においても国民意識の超克として政教分離の下に国民の意識から宗教と哲学を排除してしまった。それは戦後70年間、自由と平和と民主主義の名の下で「経済成長」という「神話」だけを信じてきたことを意味する。その結果、経済成長が止まると国民は神話を喪失し、本来の「生きる哲学」を考えることが出来ずに露頭に迷っている。

前後レジームからの脱却でもなく戦後70年の総括でもなく、もう一度、明治維新以降の日本が目指してきたことの総括をしなければならない時期に来ている。現在、地球を席捲している西洋の近代国家の枠組みや価値感が総て正しい訳ではない。現在の日本の民主主義の枠組みが本当に日本人の育んできた社会の価値感に適合するのかどうか。沖縄県民は普天間基地辺野古移設について反対し、先日の選挙でもその意思表示を明確にした。その結果、小選挙区では移設反対の候補者が全員当選した。しかし政府は沖縄県民の意志表示にも関わらず、移設のための調査を強行している。これは民主主義なのだろうか。国民の声を反映しない代議制民主主義は日本の機構と風土に適合しているのだろうか。原発問題も集団的自衛権問題も特定秘密問題も国民の意志とは違う方向に動いている。今回も経済成長神話に慣らされている国民はアベノミクスという神話もどきに欺かれて、本当に自分たちが求めているものは何かを見失っている。本当の生きる哲学とは何かが分からない国民になってしまったようだ。