ダンテの神曲

1992年と最後の審判のブログに書いたキリスト教徒の畏怖とは具体的にどのようなものかダンテの神曲で調べてみた。ダンテの神曲は世界史の教科書に書いてあるので殆どの人が知っていると思うが、私は今回初めて読んだ。読んでみると1992年の謎に対する答えが更に明確になった。それは神曲の地獄篇の第7の層の「神への暴力」のなかに「自然の恵みへの冒涜」が書かれていたからだ。唯一絶対神が創造した自然を冒涜する行為が神への暴力になるという論理は私には分からなかった。

キリスト教の神であるヤハヴェが創造した自然を修復不可能にする行為は間違いなく神への暴力であり、そのような行為をした人間は最後の審判で間違いなく地獄行きを命ぜられ、その第7層には灼熱の砂と火の雨が待っているのだ。チェルノブイリ原発事故は将に自然を修復不可能な状態にし、神への冒涜そのものなのだ。チェルノブイリ原発に直接携わっていない人間も、この事故によって自然科学に対する絶対的信頼を失い、科学の進歩に対して疑問を持つようになった。これが1992年のターニングポイントへとつながっていったのだ。

私たちも福島の原発事故で欧州の人たちと同様の思いをしているのに、何故、原発の再稼働をさせようとし、原発の海外輸出をしようとしているのか。その原因はやはり欧州のキリスト教徒が信じている「最後の審判」と地獄篇に書かれている「神への暴力」に対する罪と罰の意識が日本人には無いからだ。その結果、COP20での地球温暖化に対する目標設定も未だにされず、生物多様性に関する愛知ターゲットに対しても認知されない状況が続いている。

それではどうしたら良いのか。日本人がキリスト教に帰依して神への暴力の結果としての最後の審判に対する恐れを抱かなければ解決しないのか。私はそうは思わない。この問題は今日の憲法改正や道徳教育に共通する問題であり、もう一度、日本人が歴史と風土のなかで培ってきた価値感や考え方を思い起こし、新たに再構築しなければ解決しないと思っている。これは戦後レジームからの脱却ではなく、明治維新以降、西欧をモデルとした近代国家を目指してきた歴史の総括なのだ。維新政府は西欧近代国家の思想的背景となっているキリスト教を真似て国家神道を掲げたが、敗戦とともに崩壊してしまった。その後は自由と平和と民主主義の旗のもとに日本人は経済成長だけを目指し、成長が止まってしまった今、はたと自分たちには精神的支柱が無かったことに気がついた。これはアベノミクスで解決できる問題ではないし、経済の問題ではないのだ。