地域活動と夜逃げ

最近は地域創生が話題になっているが、本当に地域活動を理解している人はどれくらいいるのだろうか。私は地域活動をサラリーマン時代も含めて25年しているが、地域活動の要諦は「夜逃げをしない」の一言につきると思っている。地域活動について様々な能書きを言う人が多いが、地域活動は地域に責任を持って発言をしない限り地域の人はついてこない。これは私の経験から導き出した結論である。

私は25年前にまちづくりを仕事として行い、その際に「まちづくり憲章」などという立派な企画をつくり地域の人たちに提示していた。しかし地域の地権者に言われてしまった。「そこまで言うのであればここに引っ越してきてやってくれませんか」と。私はその頃、住居移転を考えていた時期だったので、交通の便は悪いが引っ越すことにした。そこで最初に取り組んだのは自治会の設置であった。普通150世帯あるまちであれば単独で自治会を設置するのであるが、地権者の殆どが住んでいる従来の自治会が隣接していたので、その自治会に加入することにした。自治会としては600世帯に膨れ上がり、構成としては地権者などの地主層、昭和30年代40年代に移転してきた持ち家層、昭和50年以降に移転してきた賃貸持ち家層、学生や単身世帯賃貸層、そして150世帯の若年家族賃貸層であった。

これらの様々な年代の家族や持ち家と賃貸による地域への思い入れなど、価値観が異なる人達を相手に「まちづくり憲章」を実行しようとして引っ越したのだ。地権者の期待は高く、私は引っ越した当初から自治会の役員となり、翌年には自治会の事務局長となって活動を任されてしまった。普通のサラリーマンは自治会活動は時間的に不可能であるが、私の場合は自治会の会議日程等のスケジュールが総て私の都合の良い日に設定され、私も逃げられなくなってしまった。当時、ワープロやパソコンで自治会の回覧板や会議資料を作成する人が地域では珍しく、それができるので私の能力が過大評価された向きもあった。このような状況のなかで私の地域活動は始まったが、私の作った「まちづくり憲章」が如何に実体とそぐわないものか実感した。

地域活動は、そこに昔から住んでいる人たちの気質を理解しなければ出来ないし、その気質はその地域の風土が作ってきたのだ。私の地域は水田地帯であり、いまでも用水が張り巡らされている。更に近くを流れる多摩川や浅川が氾濫するために、昔からの農家は山手に住まいを構えていたそうで、集落が一緒に平地に移転してきたので地主は同姓の一族で構成されている。その為に今でもその一族は山手の神社の氏子であり、平地の神社の氏子でもある。更に氾濫の結果、農地の形態が度々変わったので飛び地が多い。現在はその地主層は自治会全体の2%程度であるが、彼らを無視して地域活動は出来ない。彼らは未だに僅かではあるが農業を継続しており、そこで使う軽トラックは地域活動には欠かすことが出来ない。しかし彼らだけを相手にしていたのでは地域活動はできず、残りの88%の層の価値観や行動を分析し、それぞれの層に合致した企画を作りながら全体の相互関係を形成し、地域愛を作っていった。

私の地域活動についてはこれまでもいくつかブログで紹介してきたが、詳細についてはこれからブログに掲載する。今回のブログで一番言いたいことは、地域活動について能書きを言うのであれば、自らが地域活動に何らかの形で携わり、その経験に基いた能書きを言えば人は耳を傾ける可能性があるということだ。しかし、その能書きは何処の地域でも適合するものではなく、地域の気候と風土が形作った人間の気質によることを忘れてはならない。タイトルにあるように地域活動の主体は地域の住民であり、地域に住んでいれば夜逃げは出来ない。私は「まちづくり憲章」を唱えていた時にはいつでも夜逃げができたが、引っ越してきてからは自分と自分の家族の問題であり、簡単に夜逃げができず、覚悟を決めて地域活動を展開してきた。現在の私は自分の経験をもとに、地域で私と同じように頑張ろうと思っている人に対してアドバイスを始めている。地域創生とは最終的に「地域の人づくり」に行き着くものであると確信している。