所沢の住民投票と民主主義

所沢のエアコン設置に関する住民投票について様々な意見が出されている。私は今回の結果を見て、これからの民主主義の手法を根本的に変えなければならないと確信した。それは未来を託する子どもたちの教育環境の問題なのに、投票率が31.54%という数字が何を意味するかということを問題にしている。ここで私は所沢市民の意識の低さを問題にしているのではない。現在行われている民主主義の手法に問題があると思っている。私は地域活動を20年以上しているなかで、今回の住民投票に対して所沢市民が自分たちの地域の暮らしとの関係性を認識できるような手法だったのかを問いたい。私の地域活動はブログにも書いているが広域であり、ほぼ中学校区のエリアを対象にしている。今回の住民投票が私の地域の問題と仮定して、私たちが認識している中学校を対象にしたエアコン設置の住民投票だとしたら、どの程度の投票率になるか。私のこれまでの経験からすると間違いなく60%以上、多分80%程度になるのではないかと想定している。何故ならば、自分たちの子どもや孫や近くに住んでいる子どもたちが通う問題だからである。所沢の住民投票もそれぞれの中学校区別に投票をしたら、多分私の地域と同じような結果になると思う。

マスコミは投票結果に対するコメントはしているが、投票の仕組みの問題点には言及していない。私はここで住民投票の手法論だけを問うつもりはない。私たちが認識している民主主義はどのような問題点を抱えているのか。選挙民の支持を受けたといって、一方的憲法解釈で国民の生命を危険に陥れる可能性のある法案を多数決の論理で強行しようとしている民主主義。代議制や多数決という民主主義の仕組みは本当に日本国民を幸せにしているのだろうか。今回の住民投票所沢市という行政単位の問題として議論されているが、もっと細かい地域単位、例えば中学校区単位の問題として議論する手法が本来的な民主主義ではないだろうか。社会全体が効率化という名目の下に合併が行われてきたが、それを行政サービスという視点だけでなく、民主主義の視点で考えなおす必要があるのではないか。

民主主義の原点と言われるアテネ直接民主制は非常に狭い範囲で行われ、ソクラテスの裁判も殆どのアテネ市民は知っていたのではないか。私たちが何の疑問も持たない現在の民主主義は、欧州の市民社会が幾度かの革命を経て勝ち取ってきたもので、本当に日本人社会に適合している仕組みなのだろうか。日本は対外戦争をしてこなかった世界でも稀な国であり、欧州のように戦争に明け暮れてきた国とは風土も価値観も異なるはずである。明治維新以降、近代国家を目指して民主主義の形を導入し、戦後は占領軍によって造られた民主主義の形を守ってきた。そろそろこれまでの常識や考え方から離れ、自分の住んでいる地域から民主主義とは何かを考える時期ではないだろうか。そうすれば一部の国会議員だけで議論されようとしている憲法改正についても、地域からの視点で判断が可能となる。所沢の住民投票は結果を議論するのではなく、民主主義の仕組みをもう一度地域に取り戻すきっかけにしなければならない。