ヨルダンのパイロットと輪廻転生

ヨルダンのパイロットが焼殺され、イスラム国に対する非難が各地で起きているという報道がなされている。私たち日本人はイスラム国が様々な捕虜を惨殺しているのに、何故、今回のパイロットの件で特別に怒っているのか分からない。報道もその点に関してはあまり解説をしていない。

私はブログのなかでキリスト教に関する様々なことを書いているが、そのなかで最後の審判とダンテの神曲の地獄篇について調べてきた。調べていくうちに今回のパイロットが「焼殺」されたことの意味を考えてみた。キリスト教の歴史のなかで火あぶりの刑に処せられた人物を思い起こすと、ジャンヌダルクや教改革のフス等がいるが、魔女や異端者の刑罰として火炙りにされている。これは伝統的なキリスト教の価値観では、最後の審判の時まで肉体が残っていなければならないという理由からきている。火刑は肉体を燃やし尽くしてしまうため、最後の審判の後に「復活」ができなくなってしまうからだ。だから死んだあとは土葬であり、日本のように火葬には絶対しない。イスラム教もキリスト教と共通の神であり、最後の審判と復活は同じ考え方なのだ。

私たち日本人にはキリスト教徒以外、最後の審判も復活もなく、殆どの人が生まれ変わる輪廻転生をなんとなく信じている。そこの違いは何処からくるかというと、時間に対する基本的な考え方ではないかと言われている。キリスト教イスラム教には前世はなく、死後は私審判を経て最後の審判を受け、光に包まれながら天国に行くという、直線的に時間が流れていく。私たち日本人は前世があり、現世があり、死後は阿弥陀様が迎えに来て西方浄土に行き、そこで魂が再生されて現世に生まれ変わるという循環的に時間が流れていく。このような時間に対する観念がムスリムの義務であるジハード聖戦という考え方を生み、自爆テロが次から次へと起きている。キリスト教の十字軍も同様の考え方であり、歴史的に拭えない溝を生んでいる。

今回の邦人殺害に対して様々な意見が交わされているが、私たち日本人が中東問題に対して貢献できる点は実はここにあるのではないかと思う。人間は直線的時間のなかで生きているのではなく、循環的時間の流れで生きているという考え方を理解してもらう活動を展開することが大切であり、それができるのは日本人しかいないのである。積極的平和主義とは自衛隊を派遣することではなく、日本人が持っている輪廻転生の考え方を紹介し、もう一度、コーランの新しい解釈を一緒に考える活動ではないだろうか。