道徳教育パブコメ

道徳教育というと儒教的側面をイメージしてしまうが、現在の日本人に欠落しているものは日本国民の自尊心の背景となる哲学と宗教である。これは戦後教育に問題があるのではなく、明治維新政府が目指した近代国家の枠組みに、それまでの日本人には無かった統一国家を意識させるために国家神道を新規導入したところから始まっている。維新政府は西洋の近代国家形成の過程で科学技術だけでなくキリスト教の果たしている役割を学び、それを真似るために国家神道を導入したが結果的には目的は果たせなかった。それは敗戦後に天皇人間宣言神道廃止令が出ても、国民の反乱が起きなかったことで証明される。更に、戦後教育のなかでは近代史と古代史を教えずに、国民は豊葦原瑞穂の国の民であるという意識を喪失させられてしまった。国民は天皇陛下宮中祭祀を知らず、新嘗祭の意味が分からず、伊勢神宮はパワースポットだと思っている。靖国神社公式参拝に中国と韓国が何故、拘っているかの歴史的背景を知らずにヘイトスピーチをしている。平和憲法の下での経済成長だけが日本の「神話」となってしまい、成長が止まった現在、日本人は自尊心を喪失し精神は路頭に迷っている。
そこでもう一度、明治維新に立ち戻って本来の日本人の精神構造を思い起こし、西欧近代国家の背景となっているキリスト教の精神と哲学理性を再度、理解しなおさなければならない。現在の地球上の価値観の殆どは西欧文明であり、その背景にはキリスト教的価値観がある。ヤハヴェという絶対的権限を持った神によって自然が創造され、その管理をするために人間が存在する。その人間は生まれて後にキリストに救いを求め、最後の審判で神の裁きを受け、復活するという直線的時間の価値観のなかで生きている。その同じ神の下での価値観のぶつかり合いが十字軍であり、パレスチナ問題であり、イスラム国の問題である。更にデカルト以降の物心二元論が西欧の自然科学の発展を促し、それが行き着いた結果、現在の地球環境問題を引き起こしている。
このような状況のなかで西欧人のなかにも西欧文明の限界を感じ始めている人が多くいる。彼らは仏教の輪廻転生する循環的時間の価値観が今後の世界にとって必要なのではないかと思っている。更に時間的価値観だけでなく輪廻転生が人間と他の生きものとの境を無くし、人間が自然の管理人であるという傲慢な考え方を転換させると思っている。更に仏教の山川草木悉皆成仏の考え方に、自然神である多神教が入り、曼荼羅の世界を構成すると感じている。
このように近代国家を形成してきたキリスト教の弱点を認識し始めた西欧文明に対して、アジアと日本が持っている文明の価値観を提示することが私たち日本人の役割ではないだろうか。現在は既に近代国家になった国民に国家観を植え付ける必要のない時期であり、明治維新とは時代が異なる。更に近代国家の模範であつた西欧文明の概念にとらわれず、新たな文明の価値観を発見して、世界に語りかけることが求められている。これは西欧からのアジアの解放を目指した戦前の大東和共栄圏の思想と似ている部分もあるが、思想と価値体系の解放である点で全く異なる。更に西欧文明を構成している価値体系や論理手法にも拘泥する必要はない。
例えば、日本人が有史以来、持っていた価値観の「和」が対外戦争をしない原因であり、憲法9条があったからでは無いという発想。17条の憲法の第1条は外来の価値観ではなく、日本人のなかにあった本来的な価値観を聖徳太子が書いただけなのだ。仏教には神は存在しないが、仏教が日本に来ると本地垂迹という思想で神仏が一体となり、今日の日本人の生活様式に溶け込んでいる。維新政府の廃仏毀釈国家神道を確立するために必要だったのであり、憲法20条で信教の自由を謳わなくても日本人は本来的に持っていたのだ。このように現在の憲法問題も過去からの日本の歴史の積み上げのなかで検討をしなければならない。
維新政府は西欧諸国の憲法を手本にして近代国家形成をしたが、そもそも西欧諸国の民主主義は国家権力に対する市民革命という歴史を経て作られたものである。しかし日本には西欧でいう国家権力が存在しなかったので、西欧の民主主義の概念そのものを日本に導入することに無理があった。西欧諸国と日本の国の風土と歴史は全く異なり、風土が社会の価値観を構成し社会規範を作ってきた。世界の国々にはそれぞれの気候と風土があるにも関わらず、それを自分たちに都合の良い一つの価値体系に無理やりしてきたのが現在の西洋文明なのだ。私たちが世界に発信する文明は新しい世界の道徳であり、地球が持続可能な発展をできるようにすることが目的なのだ。今回の道徳教育改革は日本国民だけの道徳教育ではなく、世界の道徳教育をどのような方向に向けてゆくかの試金石となる。