持続可能性と復活

持続可能性という言葉はハワードが有機農業の聖典のなかでsustainableという表現で使っていたものが現在では一般的に使われていると思っている。私はあまり疑問を持たずにこの言葉を使っていたが、分かったようで良く分からない言葉である。有機農業を語る場合には化学合成物質を使用しない農法が将来的に持続するという意味で使っており、それが食の安全性とつながり一般的になっている。しかし私は以前から農業や食の持続性を担保するものが有機農業ではないと思っている。私は有機農業とは地域の持続性を担保するものであり、そのために地域で単独で実施している有機農業は本来の有機農業の目的を実現していないという考えだ。そのために有機農業は地域全体で取り組まれなければならず、地域の農協や行政が取り組まなければならないという考えだ。有機農業者はその地域での取組展開にあたって指導する役割を担っている。私が全農で孤軍奮闘しながら有機農業問題に取り組んだのはそのような理由による。有機農業推進法はまさに私と同じ考え方で展開してきたが、実体としては殆ど国民に認知されていない。全農も殆どの人が有機農産物を差別化商品の一つだと思っている。

私は1980年代にヨーロッパで日本の野菜づくりをするためにヨーロッパの有機農家とも付き合ってきたが、当時のヨーロッパは現在の日本と同様に有機農業は殆ど認知されていなかった。それが1990年代以降、急速に有機農業が広まっていったが、未だにその原因が分からなかった。一般的には1992年のCAP改革で環境直接支払い政策の導入が転換点になったと言われている。しかし農業政策だけで国民が意識転換するのであれば、日本でも同様の意識転換が起こっても不思議ではない。日本では環境支払い政策が実施されても国民の意識転換は起こらず、国民は農家へのバラマキ政策だと思い、農家は補助金目当ての従来政策の延長線だと思っている。その結果、有機農業は未だに0.2%のレベルを超えることが出来ない。

最近のブログで1992年の謎について書いたが、その中でヨーロッパ人のキリスト教に基づく価値観について分かったことがある。それは修復不可能な自然破壊をした人間が最後の審判で間違いなく地獄に堕ちるという意識を持っていることだ。この自然の修復が可能であるか不可能であるかが審判の分かれ目であり、その意識が1980年代のヨーロッパ人に定着したと思われる。その意識転換の契機はチェルノブイリ原発事故であるが、意識転換とは直ぐに起きるのではなく時間をかけて起きるようだ。私がヨーロッパにいた時に明確にヨーロッパ人の意識転換が起きたわけではなく、時間をかけて起きていたので私には分からなかった。その潜在的な意識転換がCAP改革で顕在化し、環境直接支払い政策のなかで有機農業が明確に位置づけられ、更にそれは農業政策ではなく地域政策として位置づけられ、年々拡大している。有機農業だけでなく動物福祉についても直接支払いの対象となり、農産物輸出大国であるオランダでさえ大きくシフトしている。

ヨーロッパ人が大きく意識転換をしたのは最後の審判で地獄に堕ちることを恐れたわけだが、日本人も悪いことをすると地獄に堕ちるという意識はある。しかしヨーロッパ人は単に地獄に堕ちるだけでなく「復活」出来ないということがセットされている。その「復活」が何を意味するのかを理解しないとヨーロッパ人の意識転換を日本人は理解できない。キリスト教国では復活祭が大々的に行われているが、日本人の殆どはクリスマスと同様のお祭りだと思っている。各地の復活祭ではイースターパレードが行われ、キャンディーがばらまかれたりカラフルな玉子が準備されていた。このカラフルな玉子はイースターエッグと呼ばれ四旬節の間の節制(断食)が終わることを祝うためだそうだ。このようにイースター復活とはヨーロッパ人にとってクリスマスより大切な行事であり、最後の審判の日に死体から復活をして天国に向かうことを意味している。ヤハヴェが創った自然の修復が不可能にする行為をした人間は、間違いなく最後の審判の時に復活が出来ず地獄へ行くことになる。単に地獄へ行きたくないという思いだけではないのだ。

ここで本当の持続可能性という言葉の意味が理解できる。ヨーロッパ人は死んでも最後の審判で天国行きの切符を貰えれば、神とともに復活をして天国で永遠の命が保証されることを信じている。それは自分が生を受けて以降、死んでも自分の魂と肉体が連続することを意味し、それを持続可能性という言葉で表現をしている。一時期、有機農業を持続可能性農業と呼ぼうと思ったが、それは単に有機農法の持続可能性だけを意味しており、ヨーロッパ人の意識とは異なっている。キリスト教徒でない日本人に最後の審判と復活についての意識を持てというのは無理な話で、日本人の価値観に合致する「持続可能性」という言葉の意味を探し出さなければならないと思っている。