原発と倫理

ドイツのメルケル首相が日本に来た。原発問題を安部首相と話し合うことは間違いない。ドイツは2022年までに原発を全廃することをきめているが、それは2002年のシュレーダー政権の時に決定されたものであり、メルケル政権はその後に原発の稼働期間を2034年まで延長した政権である。しかし2011年の福島の原発事故後、地方選挙で反原発を掲げる緑の党が大躍進した。危機を感じたメルケル政権は原発の是非を諮問する倫理委員会を立ち上げ、「10年以内に脱原発が可能」との提言を受けて、2012年までに全ての原発を停止することを決定した。この原発の是非を諮問する倫理委員会には、元環境相やドイツ研究振興協会の会長、カトリック司祭、財界人、消費者団体など17人の委員がいたが、原子力の研究者は1人もいなかった。

ここで私が注目をしたいのは、倫理委員会にカトリック司祭が入っていることである。日本の原子力学会倫理委員会は21人の委員がいるが、大学教授、財界人、官僚、原子力関連団体等で占められている。消費者やNPO団体、哲学者、宗教関係者は全く入っていない。一般的に日本の倫理委員会や倫理審査会の構成は(1)専門家、(2)専門家でない者(非専門家)、(3)外部委員から構成されているので、原子力学会倫理委員会が特別におかしい訳ではない。しかしドイツではカトリック司祭が入り日本では宗教家は入っていない理由は何か。

そこで倫理とは何かを調べてみると、「人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。」と書いてある。日本では儒教の考え方に相当する部分が多いと思われるが、なかなかうまく説明が出来ない。新渡戸稲造はこの日本人の道徳を説明するために「武士道」を英語で書いたと言われている。基本的に倫理の解釈に日本とドイツで大きな違いがあるわけではない。それでは何処が違うかというと「普遍的な基準」の中身に違いがあるのではないか。日本で特定の宗教家が倫理委員会に入ると「普遍的で無い」ということと、政教分離の原則上許されないと思われている。しかしドイツだけでなく、西欧社会ではキリスト教は普遍的であり、その教えに従って毎日暮らしている。その結果、倫理とキリスト教は切っても切り離せない関係にあるのだ。このことを殆どの日本人は理解していない。

私の解釈では原発問題は自然を創造した神に対する暴力の問題である。自然を修復不可能にする原発事故は神への冒涜であり、その原因を作った人間はダンテの神曲に書かれている第7層の罪となり、最後の審判の結果、間違いなく灼熱の砂と火の海に落されるのだ。そうして考えれば、原発を廃止しない人間は人として守り行うべき道から外れ、善悪・正邪の判断(最後の審判)において裁かれる運命にあると考えて間違いがない。

メルケルさんはキリスト教徒としての倫理で話すと思うが、聞く方の安部総理がメルケルさんの背景としての倫理を理解しない限り、話し合いは意味を持たないのではないかと思われる。ヨーロッパ各国では原発廃止を巡って国民投票がされているが、日本では憲法改正国民投票ばかりが先行して議論されている。3.11が近づいてくると風化されてきたという話が持ち上がるが、毎日の暮らしに密着した自分たちの倫理が何かを確信できていない現在の日本人では致し方ないのではないか。アベノミックスや集団的自衛権の議論のなかからは日本人の倫理は取り戻せない。西欧諸国の人々は自分たちが信じるキリスト教の倫理から是非を判断している。いずれフランスも含め、大勢としては原発廃止の方向に向かうことは間違いが無い。私たち日本人にとって是非を判断する倫理を回復しない限り3.11は風化を続けるであろう。