日本の不安感

私たち日本人が漠然と抱いている不安感はどこから来ているのか。高度経済成長が終わり、デフレが長く続いたからだろうか。国の借金が1000兆円を超えて、先行きの経済破綻を恐れているのだろうか。消費税の先送りと年金財政の破綻による老後生活の不安から来ているのか。集団的自衛権の解釈変更による国際紛争に巻き込まれる不安なのか。私たちの不安を倍増する「不安倍政権」が倒れれば、この不安は解消されるのか。

答えはNOだと思う。私たちの不安の原因は、私達の寄って立つ考え方の基盤にあるのでは無いだろうか。戦後70年と言われているが、この間に私たちは何を基本的に信じて生きてきたのだろうか。私は「平和憲法」と「民主主義」と「経済成長」の三種の神器ではないかと思っている。しかしこの三種の神器が崩壊しつつあり、私たちは何を信じて生きるのかが分からないから不安になっている。

日本の70年間の平和は、日本が海に囲まれているという地理的条件と日米安保条約という親の庇護にも似たもので担保されてきた。所謂、安保タダ乗り論である。これはアメリカが可愛い日本の親としての使命を果たしているのではなく、アメリカの世界戦略としてやっていることは誰もが理解している。しかし中国の軍事力の増強により軍事バランスが崩れようとしており、この不安を立て直す力が日本には無い。だから憲法を改正して日本の軍事力を増強するという不安倍政権の考え方には納得出来ない。

平和とともに自由の権利を担保してきた日本国憲法がどうも機能していないというのが民主主義に対する不安である。選挙による代議制と議院内閣制に基いて不安倍政権は運営されているのだが、私たちの思っていることが反映されていない。私たちは総ての権限を不安倍政権に委託したのではないのに、三権分立が機能していない。これは現在の憲法が占領軍によって作られたからではなく、民主主義そのものが日本という国に適合していないからではないか。そもそも民主主義の仕組みは、西欧社会が歴史的に築きあげてきたもので、日本にはその歴史が無く仕組みとして導入されている。不安倍政権も9条改正だけを目指すのではなく、そもそも日本に憲法が必要なのかどうかという民主主義の根源的な議論から始めなければならない。

不安倍政権はアベノミクスという経済政策を掲げているが、殆どの人が阻害されていると感じている。更に高度経済成長という夢よもう一度と本当に思っている日本人はどれくらいいるのだろうか。物質的豊かさを追求していた高度経済成長時代の幸福感は二度と訪れない。ローマクラブが成長の限界の総括で書いているように、現在の大量消費社会の仕組みを根本的に変えない限り問題は解決しないのだ。これは経済政策ではなく日本人の基本的考え方の政策なのだ。

日本人の基本的考え方と書くと哲学の話になり、日本に哲学は存在するのかという問題になる。私が最近のブログでキリスト教関係の問題提議をしているが、これは私たち日本人に哲学が存在しないことを認識しなければならないという考えによる。3つの不安を突き詰めていくと、それぞれの課題の背景にある価値観が西欧文明から来ていることが分かる。更にその文明はキリスト教に起因する感性と悟性と理性から構成されている。しかし私たちは明治維新以降、西欧文明の技術や仕組みだけを導入し、文明の背景となるものを置き去りにしてきた。不安倍政権が取り組む課題はここにあり、この不安の原因となっている日本人の生きる基盤の考え方の方向性を示し、国民的議論をする時期ではないだろうか。このように書くと哲学の理論に議論をするかのようであるがそれは違う。生きる基盤の考え方とは私達自身の暮らしから考えることであり、行政サービスというタテ社会に慣れてしまった暮らしをもう一度、地域というヨコ社会から見直すことを意味している。地域創生では無い。