信仰と理性

最近、キリスト教に関するブログを書いているが別に頭がおかしくなったわけでは無い。信仰というものが人間の理性的行動に対してどのような影響を与えるのかということに興味を抱いたからである。西欧人が環境に対する意識転換をした理由を調べていくうちに最後の審判に辿り着き、戦後70年の総括をしているうちに戦後の神道廃止令が日本人から信仰を奪ってしまったことに気づいた。
私たち団塊の世代は戦後教育のなかで歴史の表面部分だけを学び、その本質にせまることが殆どなかった。その結果、西洋史は学んだものの神学とは一体何かがこの歳まで分からなかった。キリスト教神学とギリシャ哲学がどのような関係性を持つのかということについても最近になってやっと理解した。西洋史だけではなく日本史についても、古代神話と天皇と現代史が欠落しており、私は30才過ぎに独自に学んだ。日本人は無神論者なのか、日本に哲学があるのかどうかについても深く考えてこなかった。
歴史とはその時代に生きていた人がどのような思いでいたのかを知ることであり、その思いのエネルギーが歴史を作ってきたのであり、英雄や政治家が作ってきたのではない。それでは現代まで生きてきた私たち団塊の世代はどんな思いを持って時代のエネルギーを作ってきたのか。残念ながら私は明確に答えられない。
現在、不安倍(ふあん倍)政権は様々な政策をゴリ押ししようとしているが、私たちはそれに対する明確な哲学を持って対処しきれていない。どうやらその原因は、現在の私たち日本人が「信じるもの」と「それを論理的に説明するもの」を持っていないからでは無いだろうか。つまり日本人としての「信仰」と「本当の理性」が欠落していることが、現在の日本の混乱を招いているのではないか。戦後70年の間、自由と平和と経済成長を三種の神器として信仰してきた日本人は、ここに来て特定秘密保護法集団的自衛権や経済停滞で論理的破綻を生じているのではないだろうか。更に三種の神器の背景にある民主主義についても疑念を生じている。
それらの原因は何かを考えてみたが、それは現在の日本人が総てのことを理性で説明しようとしているからではないかと思っている。民主主義も既に形あるものとして論理的理性的に理解し、自由や平等や博愛の背景に神に対する信仰があることを理解していない。法の下の平等は神の前の平等であり、自由は国家権力からの銃だけでなく教会権力からの自由の歴史もあり、博愛は神との契約を前提としたものである。このように物事を論理的に理性的に説明する以前に、西欧人の歴史的な神との関係性を理解したうえで、それを日本人として咀嚼しなければならない。その上でもう一度、日本人としての信仰を再確認する必要がある。それは戦前の国家神道に復帰することではなく、キリスト教のような一神教を信仰することでもなく、日本の気候風土に根ざした私たちの信じてきたものを再確認することではないだろうか。