哲学と宗教

哲学といえばギリシャ。誰もが知っていることだが、何故、ギリシャで哲学が起こったのか最近まで知らなかった。理由は簡単であった。ギリシャは海洋都市国家で繁栄し、地中海沿岸の様々な国と交易をしていた。交易をするうちに自分たちが信じているオリンポスの神々の神話が普遍的で無いことを知った。つまりエジプトやメソポタミアにはそれぞれの神話があり、それぞれの神話はギリシャ神話と同様に太陽や月、山や海等の自然を創造し、愛や戦い、豊穣や多産の神々がいることを知ったのだ。それまでは自分たちのギリシャ神話だけを信じてきたが、真実は違うのではないかという疑問を持つようになった。「哲学とは疑うことであり、宗教とは信じることである」という言葉通りである。

その疑う哲学は宗教と全く関係ないと思っていたら、それも大間違いであった。プラトンの著書「ティマイオス」に「デミウルゴス」という世界の創造者が登場するのだ。それはイデア世界とは対極の物質的世界の存在を説明する為に、イデア世界を真似してデミウルゴスがこの物質世界を創造したという神話である。プラトンは「本当に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚している対象や世界というのはあくまでイデアの《似像》にすぎない」という私には理解出来ないことを言っている。どうもイデア論とは魂が存在する精神世界のことであり、その精神世界が優先することを説明するためにデミウルゴスがいる物質世界の説明をしたようだ。

デミウルゴスユダヤ教のヤハヴェそのものであり、万物の創造主であり、国土や自然を作ってきた。そこで創造主はどのようにして国土や自然を作ってきたのか。実はその背景には哲学があり、万物の根源アルケーを説いたアナクシマンドロスピタゴラスの定理や輪廻転生を説いたピタゴラスが存在し、哲学とは数学や自然学の総称なのだ。つまりヤハヴェは日本のイザナミイザナギのように天の橋にたち矛で混沌をかき混ぜ島をつくるのではなく、コンパスを持って万物を創造したのである。そのヤハヴェのコンパスの使い方を知ることが自然学であり、創造主の方程式を解く作業が自然科学なのだ。プラトンの弟子であったアリストテレスイデア論を否定して、物質世界をその形相(カタチ)と質料(原材料)が不可分に結合した「個物」こそが基本的実在であると説き、自然学の祖と言われた。更に、人間や動物には形相が無いが、人間を人間たらしめているのが「霊魂」だという。ここまで来ると頭が混乱してくるが、ギリシャ哲学に輪廻転生や霊魂という考え方があることを知った。

これらの哲学の流れを追ってゆくと旧約聖書キリスト教神学に行き着くことが分かった。旧約聖書メソポタミア文明にいたアブラハムから始まるが、ユーフラテス川の氾濫がノアの方舟の話になり、ユダヤ教の律法となるモーゼの十戒エジプト文明からの脱出であり、ヘレニズム文明がヤハヴェの万物創造に哲学という科学的性格を加え、更にバビロンの捕囚時代にユダヤ人の選民思想が生まれた。そのユダヤ人だけを救う救世主(メシア)思想を変えたのがキリストであり、復活によって救世主であることを証明した。更にギリシャ人であるパウロギリシャ語で新約聖書を書き、キリストがユダヤ人だけでなく万民を救うことをローマ帝国に広めた。

その後、キリスト教ローマ帝国内に広がってゆくためには、キリストが人間なのか神なのかの論理的整理が必要となり、在来の自然神との関係性の理論的整理も必要となった。そこに初めてキリスト教神学という哲学が起こり、アリストテレスの影響を受けたアウグスティヌスやトマスアクイナスがその後の世界に大きな影響を与えた。例えば神学大全を書いたトマスは、神の摂理が世界を支配しているという神学的な前提から「永久法の観念」を導きだし、そこから理性的被造物である人間が永久法を「分有」することによって把握する「自然法」を導き出し、その上で、人間社会の秩序付けるために必要なものとして、人間の一時的な便宜のために制定される「人定法」と神から啓示によって与えられた「神定法」という二つの観念を導きだした。私たち日本人が議論している憲法論議では「人定法」の議論だけであり、その憲法を定めたのが外国人だからけしからんという話である。憲法に定められた「平和」は「人定法」ではなく「自然法」であり、更に「永久法の観念」なのだ。残念ながら自然法の議論は国会では聞かれない。

このように現在の世界の価値観を規定している西洋文明の背景には哲学と宗教が存在していることを日本人は忘れている。私たちは学校で受験知識としてだけ学んできたが、内容は全く理解していない。私は今になってやっとヨーロッパで生活していた時の様々な彼らの行動様式に対する疑問が溶け始めた。そして私たち日本人が「信じてきたもの」とは一体何か、日本に哲学が生まれなかった気候と風土と地理的条件を見つめ直す必要があると感じている。私はここで日本に哲学が存在しなくて残念だと言っているのではない。哲学の基本である「疑うこと」をしなくても生きていけた日本という国の素晴らしさを認識しようというのである。そうした文明比較の中でもう一度、西洋文明が作り出した「民主主義の仕組み」の歴史と目的を認識し、それを日本の歴史と風土に照らして新たに作りなおすことが、現在の日本人の使命ではないだろうか。