Amazing grace

最近は宗教と哲学の本を読みあさっている。新約聖書も少しずつではあるが毎日読んでいる。そんな生活をするうちに、自分の周りで様々な発見をするようになった。その一つがこの歌である。今までは単に賛美歌のうちの一つかなとか本田美奈子が歌っていた程度の認識であった。ここに歌詞の1番を英語で書いてみる。
Amazing grace! How sweet the sound!
That saved a wretch like me!
I once was lost, but now I am found;
Was blind, but now I see.
この歌詞に書かれている” wretch”という単語の意味と背景を知り、この歌が世界中で歌われている理由が分かった。Wretchという単語を辞書でひくと、「不運な人、悪いやつ」と書かれている。歌詞を直訳すると「神はわたしのような悪いやつでも救ってくれた」神様はなんて慈悲深い方なんだと思うのが普通の日本人である。しかしこの作詞をしたニュートンは信仰心があまりない奴隷貿易船の船長であったこと。アフリカから奴隷をアメリカに運ぶ途中、大嵐に遭遇し、絶体絶命になったこと。その時に神様に必死に祈ったこと。アメリカに到着後、しばらくしてから奴隷貿易の仕事を辞めて牧師になったこと。その時にこの歌詞を作ったこと。Wretchという言葉はわたしのような悪い奴隷商人でも神様は救ってくれたという意味なのだ。

ここで状況を日本人に当てはめてみると、どんな話になるだろう。海が荒れるのは海神様(ワタツミ)が暴れているからで、子供かお姫様を人身御供として海神様に差し出して鎮めてもらうという話になる。私たちの海神様は自然の神様であり、ギリシャ神話ではポセイドンである。自然神はその自然の多様性により様々に存在するので多神教と呼ばれ、キリスト教の神ヤハヴェは人格神であり、唯一の神であり、自然界を創造した神である。海神様もポセイドンもヤハヴェも困った時に頼む神様なのだが、どうも違うようだ。日本人は絶対神とか創造神という概念をなかなか理解できないと言われているが、何が理解できないであろう。私は神様との契約の概念にあるのではないかと思う。その契約も双務契約ではなく、一方的な片務契約なのだ。この片務契約が「絶対」の概念であり、アブラハムは旅に出ろという一方的な神からの預言を受け、更に息子のイサクを生贄に出せという一方的な神からの預言を受け、そこには拒否する余地が無い。いわゆる拒否権のない契約であり、それがキリスト教信仰(旧約聖書)の基礎になっている。ヨブ記に出てくる神はヨブが罪を犯していないと訴えても答えず、神に論争をふっかけるのかと言って一蹴してしまう。日本の神様にはこのような無慈悲な神様はおらず、いたとしても日本人は誰も信じないであろう。しかしヨブは子どもも財産も失っても神への信仰を失わず、最後の最後になってやっと神はヨブを救うのである。

何故このような神になったのかの背景はユダヤ人社会の歴史的変遷にある。ユダヤ人の連戦連敗と民族離散の歴史のなかで、ヤハヴェの神はユダヤ人だけの神ではなく世界を支配する唯一の神となったことを理解しなければならない。自然神はそれぞれの文明の地域における気候と風土を背景にして成立しているので、属地的属人的な性格を持っている。和辻哲郎の文明風土論に民族としての歴史を加えないと唯一絶対の創造神は理解できない。日本の神様はニュートン船長のような悪人でも救ってくれる。親鸞悪人正機説などは更にそのうえを行く仏様の慈悲の深さを物語っている。そこには神様と仏様との契約は無い。私たちの現在の社会はこのような絶対神を背景にしたキリスト教社会が作ってきた西欧的価値観の中にある。私たち日本人のDNAにある価値構造と絶対神を背景とした西欧的価値構造とのギャップが今、顕在化しているのではないだろうか。