輪廻転生

ギリシャ哲学を勉強していると、ギリシ哲学は輪廻転生の考え方だとかいてあり驚いた。何だ、ギリシャ哲学は仏教とつながっていたのか、と短絡的におもっていたら大間違いであった。ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの万物流転の考え方も私たちの考える仏教的なものとは異なっている。ギリシャ哲学はその後、キリスト教神学に取り入れられ、輪廻転生とは死んでも最後の審判にまで到達しないことを意味しているようだ。つまり死んだあとに迎える最後の審判までの間、その人の魂はダンテの神曲の世界に行くのではなく、魂は様々な生きものの間を転生するという意味のようである。カフカの「変身」ではある朝目覚めると巨大な虫になっていた男と、その家族の顛末が描かれているが、その男は死んだ後に虫になったかどうかは書いていない。
私たちの考える輪廻転生は三島由紀夫の「豊饒の海」に書かれているように、魂は不滅で様々な時代に様々な人の身体に入り込むものと考えている。だからダライラマに選ばれた少年が前世を覚えているといっても、そんなに違和感は生じない。更に自分の魂が虫になったとしてもそれを拒否するものではなく、山川草木悉皆成仏ではないが、私たちには人間と他の生きものを別のものとする考え方はあまり無い。
漢字4文字の輪廻転生ではあるが、これほど西洋文明と日本の文明は異なっている。西洋の輪廻転生は人間だけを対象にした直線的感覚であり、最終目的地は最後の審判とキリストとともに復活することにある。私たちの輪廻転生は総ての生きものを対象にした回転的感覚であり、最終目的地は無い。現世で死んでも魂は西方浄土へ行き、更にその魂は来世でまた生まれ変わり、それを永遠に繰り返すのである。
ここで私はどちらの輪廻転生が良いかを論じるつもりはない。それより来世の世の中を規定するのが現世であることを問題にしたい。私たちの現世で財政問題を片付けなければ、間違いなく来世に生きる魂が入った自分は国家財政破綻のなかで生活する可能性がある。私たちの現世で集団的自衛権を拡大解釈する安保法制が成立すると、来世に生まれ変わった魂が入った自分は徴兵されて死ぬ可能性がある。来世に生きている自分は自分の魂の前世が分からないので、自分たちの不幸の原因を作ったのが自分自身であることが分からない。因果応報とか因果律とはこのようなことではないだろうか。自分の魂の行き先に責任を持とうとするのであれば、現世の自分の魂に課せられた責任は重大であるし、その行動の結果は来世の自分の魂がとることとなる。
自分は死んだら無になるといっても、死んだ後のことは誰も知らないし、その時に前世の自分の反省をしても間に合わないのである。