生きもの調査とカントの純粋理性批判

最近、西洋哲学とキリスト教関係の勉強をしている。そのなかで学生時代は全く歯がたたなかったカントの純粋理性批判にぶつかった。私の理解では、この本はデカルト物心二元論やヒュームの因果律では説明出来なかった「神の存在証明」に終止符を打ったものではないかと思っている。つまり自然界は数字の法則に従って動いており、それはあたかもドミノ倒しのドミノのように整然と規則正しく配列されている。しかしデカルトは最初のドミノが誰によって倒されたか証明出来ず、そこに神の存在を認めざるを得なかった。ヒュームも因果律でドミノ倒しの最初の原因者を特定出来なかった。つまり自然界の普遍性を証明するためには「神の存在証明」をせざるを得なかったというのが私の理解である。
このような状況のなかにカントが登場し、従来の発想法を全く逆転させる考え方を提示した。それは神の存在証明をしないで自然界の普遍性を証明する方法だった。それは「時間・空間は世界の性質ではなく、主観の側の性質である」というコペルニクス的発想転換をしたと書いてある。この文章を読んでも全く分からなかったが別添の絵を見たら分かった。この絵は13世紀に書かれたウィーン所在の聖書に書かれているものだが、自然界を創造したヤハヴェがコンパスを持っているのだ。つまり神ヤハブェは、長さ、数、重さに配慮して世界を創造したことを想像させる。ユダヤ教の時代のヤハヴェは6日間で世界を創造したとしか書かれていないが、ヘレニズムの影響を受けた教父哲学の時代を経て神は数式に則って世界を創造した。キリスト教ギリシア哲学の影響が強く出た結果である。
カント以前の人間は片手に「時計」片手に「コンパス」を持って自然界を観察し、そこに神の創造した自然界の普遍的法則を見つけようとしていた。しかしそれは人間(主観)が作った「時間と空間」の数字を使って自然界を数値化しているだけなのだ。神が創造した自然界の普遍性(客観性)を発見するのではないから、最初のドミノを倒した原因を特定する必要は無いのだ。つまり神の存在証明をする必要性は無くなった。自然界の普遍性を発見することが科学ではなく、人間は時間と三次元空間を使って自然界を観察し、普遍的法則を確立し、様々な科学技術を生み出しているだけなのだ。
ここまで来て私はふと思った。片手に「金魚網」片手に「シュガーポット」を持って観察してきた私たちは一体何を見つけようとしているのか考えてみた。私たちは自然界の法則を見つけようとしているのではない。地域の環境の経年変化を科学的に観察しようとしているのでも無い。私たちは生きもの調査の中に何か哲学的な目的を感じてきたが、それが何か分からなかった。この絵のコンパスを網とポットに置き換えてみて初めて分かったような気がする。どうやら生きもの調査は自然界の普遍性を証明するものではなく、私たちの心のなかにある「精神の普遍性」見つけようとしているのではないだろうか。だから最近の生きもの調査では、以前のようにイトミミズの数を数えて客観的なデータを得たりせず、同定した種の数に一喜一憂してはいない。小さな生きものを拡大鏡で観察し、生きもの語りとしてのお絵かきや俳句川柳づくり、更に生きものの替え歌づくりに移行している。それはどうやら本当の生きもの調査の目的に近づいているのではないだろうか。10年以上、生きもの調査をやりながら考え続けてきたことの結論が見えてきたような気がする。