民主主義の錯覚

 2030年、今から15年後の私たちの暮らしはどのようになっているか。それは神様だけが知っているという人は、本当に人生を主体的に生きているのだろうか。主体的に生きるということは、そんなに難しいことではなく、様々な社会変化に対して主体的な意志を持って生きているかということを意味している。自分一人ではどうなるものでは無い。世間の流れに身を任せるより方法は無い。方丈記鴨長明は山里に庵を結んでひっそりと生きていたが、現代では人と関わりなく生きていくことは不可能である。自分の無常観が自分一人で責任をとれればよいか、社会の構成員として生きている限り自分の無常観に立脚する行動は他人に影響を与えていることを忘れてはならない。選挙の投票に行かないという行為は自分ひとりの責任であると思っているがそれは違う。投票しないという行為は他人に意思決定を委ねる行為であり、それ自体が社会参画行為であることを認識しなければならない。その結果、社会があなたの思いとは違う悪い方向に動いたとすれば、投票しなかったあなたの行為は社会を悪い方向に動かした責任を免れない。
 現在、沖縄の辺野古基地反対運動のなかで「責任世代」という言葉がよく出てくるが、まさに自分たちの不作為が将来の世代に対する責任放棄を意味している。私たちが子どもや孫の世代に対して責任を持つことは当然であり反対する人はいない。しかしその責任を自覚した行動をしている人は少ないのではないだろうか。その原因はどこにあるのか。
 それは私たちの民主主義に対する錯覚にある。民主主義社会における社会参画行為は国民の代表を選ぶ投票行為だけだと勘違いしている。更に政策に対する不満を表現する社会参画行為はデモだけだと思っている。もちろん代議制は民主主義の一つの形態であり、デモは社会に対する意思表示の一つの形態である。最近では住民投票という代議制に代わる直接民主制のような社会参画の方法があるが、どうも住民の亀裂を深めるような気がしている。
 安保法案の国会審議は民主主義の錯覚の典型事例ではないだろうか。選挙で選ばれた代議員が国会で多数を占めている政党が、その過半数という大義名分と党議拘束という政党政治の仕組みを利用して、憲法違反の可能性がある安保法案を成立させようとしている。憲法改正という王道を経ず、憲法解釈の国民投票という形で国民に信を問わず、閣議決定という姑息な手段で手続きを正当化しようとしている。これらの流れに対して国民は半数以上が疑問を持ち、反対の意思表示をしているが、代議制という民主主義の大義名分に対抗する手段を国民は持たない。例えば、今国会で安保法制が成立した場合にデモをしている人たちの活動は何処に向かうのであろうか。来年の参議院選挙に向けて活動は続くであろうが、そこで自民党を敗北させたところで政権は変わらず、安保法制は着々と実行に移される。その結果がどうなるかというと、活動を展開した人を中心に無力感が蔓延し、日本は民主主義とは真逆の方向に進む可能性が高い。
 それは戦前のドイツや日本が辿った戦争に向かう狂気の道筋である。ヒトラーアウトバーン建設等の公共事業やユダヤ人を排斥することによって失業者対策を解消して国民の支持を得てきた。それは選挙という民主的手法で議席数を増やし、ワイマール憲法を改正せずに解釈論だけで首相と大統領を一本化した総統という機構を創り、そこに対する政治的権限移譲を進めたのだ。狂気はヒトラー単独ではなしえず、ドイツ国民全体が選択した道筋であった。
日本では満州事変以降の歴史のなかで、ヒトラーに該当する人物がいなかったにもかかわらず、国民全体が大東亜共栄圏という大義を信奉して突き進んでしまった。それは1941年の対英米開戦までは中国侵略等に対する批判勢力があったが、それは1942年に開催された「近代の超克」座談会に象徴されるように、侵略戦争をアジアの植民地開放という大義で覆ってしまったのだ。それはヒトラーのような指導者の下になされたものではなく、日本の近代化を支えてきた国民が選択した狂気であった。戦後70年を経ても、その総括は未だになされてはいない結果、安保法制のような事態を招いてしまっているのではないだろうか。
 それではどうしたら良いのか。解決策は現在の憲法や民主主義という仕組みが西洋文明に基いているのだから、大東亜共栄圏の発想のようにアジア型民主主義を模索したらどうかと思った。しかし西洋のようにギリシア哲学とキリスト教神学の社会的価値体系を背景にもたず、身分制社会からの自由をめざした市民革命の歴史も持たず、その西洋の歴史の果実だけを明治維新以降に導入した日本の市民社会にはアジア型民主主義を創造するエネルギーは無い。そこで私は西洋文明が作り上げた価値構造を批判して対峙するのではなく、良いところを取り込んでいくのが日本の文明社会の進むべき道ではないかと思う。これまでの日本が中国からの様々な文明を取り入れて、それを取捨選択して日本独自の文明を築いてきた歴史を思い起こすべきである。法律や制度等の反対運動に体力を消耗するのではなく、自分たちの住んでいる地域社会から一つ一つ変えてゆくことが日本型民主主義の道ではないかと思う。