安保法案採決不存在

安保法案の採決不存在の署名が来たので、以下の文書を添付して賛成した。
私は丁度、西欧文明を様々な視点で分析し、私たち日本人が当たり前と思っていることが実は明治維新以降の新しい考え方であることが分かってきた。その中で、日本人が思っている民主主義と西欧人が思っている民主主義は違うのではないかという疑問が湧いてきた。そこで民主主義の原点とも言われている「自然法」に関する研究をしてみた。そこには次のような解説があった。
自然法が出てきた社会的背景としては、「王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は人民はもとよりローマ教皇神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては人民はなんら反抗出来ない」という王権神授説によって正当化された絶対王政に対して新しい視点から社会のあり方を考えるようになった。それまでは思想や文化において(ルネッサンス宗教改革等)この考え方は進んでいたが、政治や社会のあり方にまで個人・思想の尊重を訴える動きが出てきた。王権神授説に対して「人間には民族や時代に関係なく全ての人間に通用する普遍的な法律が存在する」それが「自然法」という考え方であった。その後、自然法の流れにのって「社会契約説」が誕生した。「社会契約説」とは国家や社会の成立を個人の自由意志に基づく相互契約に置く思想であると解説されていた。
これらの一連の歴史のなかでホッブス、ロック、ルソーはどんなことを主張していたのか調べてみた。
ホッブスは人間の中には生まれつき自分の命を守ろうとする「自己保存の欲求」と他人よりも優れた存在でありたいとする「虚栄心」が存在し、2つの欲求を満たそうとするためにあらゆる手段を用いることができる「自然権」を持つと説いた。今回の安保法制では国民の命を守ろうとする「自己保存の欲求」と安倍首相の歴史に名を残したいという「虚栄心」が衝突したと言える。安倍首相は自分の「虚栄心」という自然権に基づきあらゆる手段を用いて安保法制の国会通過を強行した。しかしそこでは国民の持つ「自己保存の欲求」という自然権が無視されてしまった。

次にロックは統治論のなかで「国家に預けた自然権を政府が悪用して国民の権利を侵害した場合、国家の契約違反に対する「抵抗権」が生じ、権利が認められない場合は一度、国家を壊して新しい仕組みを築く権利「革命権」がある」と書かれている。まさに今回の国会の議決は国家に預けた自然権を政府が悪用して国民の権利を侵害したのである。私たちはロックが書いているように「抵抗権」があり、今回の採決不存在の署名活動もその一つといえる。更に新しい仕組みを築く権利「革命権」は次回の選挙まで待つ必要はなく、武力によらない革命を目指さなければならない。

次にルソーは社会全体の平和と平等を目指そうとする「一般意志」と個人的な欲求を満たそうとする「特殊意志」があるなかで、一般意志は他者に代弁することはできないと書いている。それはまさに国民の命に関わる自然権に対する議会制民主主義の限界を指摘している。イギリスでは選挙までは自由だが、選挙が終わってしまえば有権者は政治家の言いなりになるにすぎないとも書いている。私たち国民は平和を目指す一般意志を表明しているにもかかわらず、国会議員は国民の一般意志の代弁をしていない。まさにルソーの書いている通りのことが日本で起こったのだ。

今回の国の暴挙は国民の命を守ろうとする自然権を無視し、議会制民主主義の手続きも無視している。これは人類が築きあげてきた民主主義の歴史に対する冒涜であり、ロックの言う国の契約違反に対する抵抗権を国民全体で示す時が来た。しかしこの抵抗権をどのような形で具体化してゆくかが問題となる。西欧文明の歴史を勉強するなかで、西欧の民主主義は絶対王政以降の歴史ではなく、背景にはキリスト教が存在している。自然法についても普遍的な法律の存在の前に普遍的神の存在があり、それが西欧社会全体の民主主義の底流に流れている。残念ながら明治維新以降、西欧文明から科学技術と民主主義の枠組みは輸入してきたが、その精神的背景となっているギリシャ哲学とキリスト教神学は学問として輸入されただけであった。

今回の問題が日本の民主主義の原点になると言っている人もいるが、私もそのとおりだと思う。自然法だけでなく議院内閣制等の民主主義の仕組みは西欧文明と表裏一体となっており、それを日本文明のなかで新たに構築するのは容易なことではない。いわゆる「近代の超克」をしなければならない。西洋文明を超克して日本文明に基づく仕組みを作り上げるには、従来のようなデモ行進、反対署名運動、違憲訴訟等の取り組みでは実現しない。何故ならば、これらの取り組みは西洋文明が作り上げた民主主義の仕組みを踏襲しているからである。私は近代の超克は、政治家、思想家、哲学者、運動家等の従来の国家的視点からの議論では実現しないと思う。視点を国家から地域に落とし、国民から市民に落として議論と行動を展開しないかぎり「この国のかたち」は変わらないであろう。