命とお米と田んぼの関係

お米を石高制と尺貫法で考える
現在、お米はスーパーやお米屋さんでビニール袋入り売られていますが、単位はkgです。炊飯器の目盛りは「合」という容積なのに、何故、買うときはkgという重量なのでしょうか。戦後、「新嘗祭」が「勤労感謝の日」にとって代わり、新嘗祭という言葉を多くの日本人が忘れてしまったように、石高制と尺貫法も日本人の暮らしとどのような関係であったのかを忘れられてしまったようです。その結果、現在の日本人は、お米を品質と価格という「商品価値」だけで判断するようになり、日本の農家は輸入米の価格に対抗できない状況に追い込まれてしまっているのです。

1升や1合が容積であることは皆さん知っていますが、それが「命」とどんな関係であったかは知りません。昔は土地の生産性・価値を「石高制」で表しました。「加賀百万国」とは、加賀藩の領地全体で100万石のお米が獲れるという意味を表しています。豊臣秀吉太閤検地とは単に農地の面積を測ったのではなく、農地面積の単位も変更しました。それは日本人が1年間に食べるお米の量1石(約150kg)を基準とし、その1石の米を生産するのに必要な水田面積を1反(約1000㎡)と決めたのです。太閤検地前は1反が360坪だったのですが、当時のお米の生産性を勘案して300坪に変更したのです。つまり「1人の人間の命」を支えるために必要なお米の量が1石であり、その1石のお米を生産するのに必要な水田面積が1反だったのです。

ですから江戸時代の水田面積は200万町歩ですので、当時のお米の生産性から計算すると2500万人の日本人の命を養えたのです。現在の日本は稲の作付け明晰が200万町歩ですので、現在の生産性から計算すると5000万人の日本人の命しか養えていないのです。現在ではお米の量はkg、水田面積はhaと表示され、国民は日本人の「命の単位」を忘れてしまいました。つまり「命」の単位ではなく「商品」の単位としてお米を見ているので、安い輸入米を買っても自分の命との関係性を見失ってしまっているのです。

EU市民は神との関係性で意識改革をしましたが、日本国民は命の単位を忘れてしまったので、本格的直接支払いには転換できません。本格的な構造改革をするのであれば、農家だけを対象とするのではなく、日本国民全体を対象にした意識
位しか改革をしなければなりません。