中央大学ボランティア学生を受け入れての感想

今回の企画は当センターとしても初めての試みだったのでどのようになるか殆ど予想できなかった。しかしセンターとしてはセンターの炊き出し食事会に学生が参加するという形で行ったので、学生受け入れに際しては特別な配慮はしなかった。センターの活動のありのままの姿を見てもらって、学生がどのように感じるのかという点に興味があった。
実際に受け入れてみて感じたことは、今の学生が非常に真面目て私たちの若い頃のような不真面目さが見当たらなかった。こんなに良い子だけだと将来が心配だなと思った。社会というものは良い子悪い子普通の子が存在することによって多様性が保たれるのであって、多様性や批判精神の無い社会は一度間違った方向を選択してしまうと、そのまま進んでしまい、社会としてのチェック機能が欠如してしまう。ワイマール憲法という素晴らしい民主主義の鏡を持ちながらドイツ人がナチに進んでしまった歴史が二重写しになる。
現代若者気質論は別にして、今回のツァーによって私はボランティアという活動に非常に興味を持った。私は地域活動を四半世紀以上しているが、自治会活動でもNPO活動でも自分たちの活動をボランティアとしてみることは無かった。その後、明星大で行われたボランティアのシンポジウムに参加した後で、私としてはボランティアについて本格的な考察活動をすることにしたので、今回の受け入れはそのきっかけになった。
今回のバスツァーの募集にも記載されていたが、公務員になるための研修ツァーとは一体何を考えているのか私には理解出来なかった。ボランティアという活動の原則から見ると非常に邪道では無いかというのが私の感想である。しかし学生を集めるためにはこのようなフレーズが必要なのかなという状況も理解できた。参加した学生のアンケートをみると、総ての参加者が公務員志望の動機からでは無いことが分かり安心もした。しかしボランティアに参加する動機がなかなか明確にならず、更にボランティアを受け入れる団体そのものの動機の分析もされていないことが分かった。私の交流センターで学生を受け入れている理由は、あくまでも学生の主体的な勉強の場の提供であり、場の提供だけでなく交流センターの活動の社会的背景や活動が地域に与えている影響等について教材として提供している。最初のうちは指示待ちの活動であったが、現在では自分で判断して動き、企画の段階から提案をするようになっている。彼らは交流センターで学んだことを今後の自分たちの地域の活動に役立てることは間違いない。一方、まちづくり市民フェアにおけるボランティアの受け入れはその目的の殆どが無償労働であり、参加している市民団体の意識のなかに学生ボランティアは位置づけられていなかったように思う。私自身も市民フェアに参加して長いが、ボランティア学生を意識した企画は立ててこなかった。今回の発表会が初めてであり、本来は受け入れ団体が主体的に学生の感想を聞かなければならない場であったが、残念ながらそうならなかった。私が収穫祭の後に意見交換会を企画したのは、その反省からである。
このようにボランティア活動は様々なされているが、その参加動機と受け入れ動機が明確でなく、それぞれの勝手な思い込みによってなされているのが実態である。その結果、災害ボランティアにおいてミスマッチやギャップが生じたりしている。ボランティアセンターの業務も無償労働ハローワークのようになってしまい、本来の参加意志と受け入れ意志の確認を怠っているように見えるのは私だけだろうか。
ボランティアの考察活動をしているうちに、この活動を社会的にきちんと位置づけをしていくことの大切さを痛感している。まだ考察途中なので論理的整合性は無いが、ボランティアの活動原則と現代社会の課題との関係性及び課題解決による次世代社会の創造の可能性について簡単に記す。
ボランティア活動の原則としては「主体性」「連帯性」「無償性」「創造性」があげられている。
働くことの主体性とは何処に就職するかではなく、何処の会社でも社会との接点はあるので、その接点を通じて自分の労働と社会との関係性を理解すれば、仕事はやらされているのではなく主体的にしているということが理解できる。労働と社会との関係性とは「本来の労働が自然を加工して使用価値を生む」という原則に立ち返り、会社と自然との関係性を追求していけば自分の労働が自然とどのような位置関係にあるのが分かる。せせらぎ農園等の活動を通じて自分の労働と自然との関係性が分かれば、働くことの主体性を回復できる。
働くことの連帯性とは、賃金労働以前の租庸調のような賦役や地域共同農作業労働に見られるように人間の労働とは本来、共同作業であった。家内制手工業の時代の労働であれば徒弟制度の下で最初から最後まで一人の人間の労働で商品が作られていた。その後の産業革命による工場制労働によって労働が細分化され、大量生産によって更に分業化が進み人間の歯車化が促進された。このような環境が会社だけではなく地域社会の連帯も崩壊させた。これらの細分化された仕事や地域から連帯制を回復する活動の一つとして交流センターや自治会の活動がある。
働くことの創造性とは、現在の社会における資本の論理から抜け出すことである。労働における効率性や経済性、安定性等の指標は産業ロボットに取って代わられようとしている。更に知的労働の分野においてもコンピューターが代替できそうになっている。そのような時代における労働とは何かを考えると、もはやそこには労働生産性等の数字の世界では無くなる。このことを無償労働と一緒に考え、新しい労働のあり方を模索する時代に来たようだ。
無償労働とは先進国における概念であって豊かな社会の象徴であり、社会保障制度が充実していない国の無償労働は苦役である。現在、ヨーロッパで検討されている所得補償制度が完成した暁には賃金労働が社会から無くなり無償労働だけの世界になるかもしれない。マルクスの「労働が賃金を生む」という世界は過去のものになるだろう。しかし現在の社会では賃金のために過酷な労働を強いられ、電通の社員自殺のような社会問題となっている。その原因はマルクス資本論の原則をそのまま受け入れているからであって、労働は賃金を生むためだけに存在しているのでは無いことにきがつかなければならない。産業革命を境にして賃金労働が一つの商品となってしまったが、労働は商品では無い。本来の労働とは自然を加工して使用価値を生み、更にその使用価値によって多くの人達に豊かさをもたらすものであった。労働とすれば辛い田植えや刈り取りは昔から共同労働であり、そこには歌があった。つまり労働は賃金以前に共通の「心」を生んでいた。心の失われた労働は孤立を生み自殺を生む。バブル崩壊以前の日本の会社組織はその家族主義のなかに「心」があり、終身雇用、年功序列賃金等の仕組みがあった。この仕組によって日本は経済成長をしてきたが、構造改革以降、日本の会社は経営優先主義の欧米型経営に転換してしまった。もしかしたら学生ボランティアの無償労働は若者による新たな労働価値を模索する萌芽ではないかと思っている。この部分を深く掘り下げていくと若者世代の将来像の展望が切り開けるかもしれない。私が学生に研究会を勧めている所以である。

今回のバスツァーによって私が刺激され、このような活動をしようと思っていることはツァーの成果ではないだろうか。このように学生だけに焦点を充てるのではなく、様々な方面に議論を巻き起こすのがボランティア活動ではないだろうか。今後は学生と受入先の双方から体験に基づく意見交換会を企画し、その活動の輪を広げていくと新しい日本の若者による価値社会が創造されていくのではないかと期待している。