憲法改正の考え方

 憲法改正論議が本格的に始まっているが、おかしなことがある。憲法改正の議論は知性と理性に基いてするものであるが、感情に基づいた問題提議がされている。1つは「現在の憲法は占領軍によってつくられたものであるから改正をしなければならない」という問題提議であり、現在の憲法の内容についての問題提議ではない。憲法を作った人間が誰であれ、内容が日本にとってふさわしいものであれば憲法として機能するのではないだろうか。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の論理である。もう1つは「安倍政権の時に憲法改正をするのは反対である」という世論調査の結果である。憲法改正というものは時の総理大臣が誰であろうと改正の必要があればするものではないのか。これも坊主憎けりゃの類の論理である。
 ここでもう一度、何故、今、憲法改正をしなければならないのかを感情を抜きにして知性と理性に基いて考えてみたい。
 私は団塊の世代であるが、自分の生まれた時代が占領軍によって統治されており、国家としての主権が回復されていなかったという認識が無い。学校の授業でも戦争責任や天皇陛下についての記憶が殆ど無い。まだ小学生だった1960年の安保条約については国会前のデモ行進と樺美智子さんが亡くなったことしか知らない。更に10年後の安保条約の時も「安保反対」と叫ぶだけで、何故反対なのかの本当の意味を理解していなかった。何故ならば私は1951年のサンフランシスコ講和条約と旧日米安保条約締結の関係性を知らなかったからだ。
日本には平和憲法があるから日米安全保障条約は不要であるというわけの分からぬ論理を信じていたのだ。更に安保や天皇制を支持すると周囲からは「右翼」と見られると感じ、全体の流れに迎合していたのだ。
 その後、社会人となって毎日忙しい日々を送っていたが、ある先輩との出会いを境に自分の疑問に対する答えを見つけるための勉強を本格的始めた。その時は既に30才を過ぎていたが、学生時代の勉強とは全く異なり、自分の疑問を納得させることが目的であった。今回の憲法改正問題もそのような視点で考えてみたい。
現在の憲法は1946年11月に公布され、1947年5月に施行された。私は中学の時に「憲法前文」を暗証させられたので、今でも「そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって〜〜」とスラスラと言える。しかし、その歴史的背景は知らなかった。歴史的背景とはその当時に生きていた人々がどのように思っていたかを検証することだ。
 終戦直後は日本だけでなく世界の殆どの国が二度と戦争を起こさないという決意を固めていたはずである。更に1945年10月には国連が創設され、世界の平和は国連軍が守るという認識をしていたのではないか。その証左として1942年の大西洋憲章に書かれている内容が日本国憲法前文に色濃く反映されているのだ。その憲章がチャーチルルーズベルトによって作られたからといって頭から否定することは如何なもの。明治憲法だってプロシャの憲法を参考にしてつくられたではないか。
 こうした時代背景を考えると1945年のポツダム宣言に基づき日本軍は解体された。更に、占領軍によって1945年12月に神道指令、1946年1月に天皇人間宣言が出され、5月からは天皇の戦争責任を追求しない極東軍事裁判が行われるなかで憲法は作られたのだ。当時の国民の殆どは象徴天皇戦争放棄を明文化した新憲法に対して疑問を挟む余地は無かったのではないか。
しかし1948年に反共の防波堤として日本やドイツが冷戦体制に組み込まれた。ヨーロッパでは1949年4月にNATOが設立され、1949年5月にドイツ連邦共和国臨時政府とドイツ連邦共和国基本法(憲法ではない)が制定され、反共国防のための軍隊がつくられた。1955年5月には西ドイツが主権を回復し、NATOに加盟し、1956年には徴兵制が復活している。
 日本でも1950年6月に朝鮮戦争が勃発したために、アメリカ軍は連合軍として日本から朝鮮半島に移動した。(現在も一部は横田基地にある)その結果、手薄になった日本の治安を守るために1950年8月に警察予備隊が発足した。このような国際情勢のなかで日本を独立国家として自立させるために1951年9月にサンフランシスコ講和条約が締結された。
 この時には既に憲法制定時のような国際情勢には無く、国連軍が世界の平和を守るということも幻想となってしまった。このような日本を取り巻く国際情勢の変化を考えれば、憲法9条の改正は1951年に実施されなければならなかった。しかし残念ながら朝鮮戦争真っ最中に憲法改正の議論がなされなかったのは致し方がないことかもしれない。更に1951年にサンフランシスコ講和条約調印の当日に旧日米安保条約が締結され、占領軍に代わってアメリカ軍が日本に駐留することになった。このように憲法の前提となっていた国連軍による日本の平和を守る構図は崩れ、それにも拘らず9条を改正しなかったのだ。1952年10月に警察予備隊は保安隊に改組され、1953年の朝鮮戦争停戦後の1954年7月に自衛隊が発足した。
 その後、1956年に国連に加盟し、1960年には新日米安保条約を締結した結果、日米の相互協力や施設及び区域並びに米軍の地位に関する日米地位協定が結ばれた。沖縄の辺野古基地問題やヘリコプターの事故問題、米軍人の裁判権横田基地の空域問題等の協定の運用については日米合同委員会で行われ、そこでは米軍に対する忖度が行われている。この問題は現在の憲法改正と一緒に議論しなければならないが、国会の論戦でも行われていない。
 現在の論点は9条2項と3項の加憲に収斂しているが、もう一度、憲法を巡る国際情勢の変化と日本人の考え方の変化を学ばなければならない。自衛隊憲法に明記するだけでは日本人として生命と健康と財産を守れない。更に憲法改正だけではなく、日米安全保障条約日米地位協定の内容にまで踏み込んで議論しなければならない。戦後70年間、水と安全がタダで手に入ると思い込んで議論をサボってきた日本人として真剣に対峙しなければならない問題である。